ケネディ・ダラス・鉄の爪・・・小鉄の想い出 | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

♪ あなたが噛んだ

 

小鉄が痛い

 

昨日の夜の

 

小鉄が痛い ♪ 

 

これは、山本小鉄さんと闘ったフレッド・ブラッシーに捧げる唄、

 

ではありません。

 

伊東ゆかりさんの「小指の想い出」をもじってみました。

 

というわけで、本日は、小鉄さんのダラス修行時代を述べたく思います。

 

66年夏、ダラスのプロモーターを兼ねるようになったフリッツ・フォン・エリックはその年の暮れに初来日します。その来日中、12月3日にジャイアント馬場への挑戦試合が、日本武道館の柿(こけら)落としとなります。

 

記念すべきこの日のラインナップを見てみましょう。

 

平野岩吉が藤井雅之を、大坪飛車角が松岡巌鉄を破った後、小鹿雷三は高千穂明久と両者リングアウト。星野勘太郎が山本小鉄を、ルイス・ヘルナンデスが芳ノ里を破ると、セミファイナルはアジアタッグ王座決定戦。大木金太郎&吉村道明がターザン・ゾロ(ハンス・モーティア)&エディー・モロー(ジャック・クレイボーン)を破って王座を獲得。新調なったベルトを締める(今日も使用中)。

 

そしてメインエベントでした。

 

当時、マスコミで評判が良かったのが、星野(24)と小鉄(25)の2人。日本プロレスはシリーズ後、2人を海外に出すことを決定。一説によると、エリックも後押ししたといいます。

 

 

 

年が明けて2人はロサンゼルスに飛び、ハードボイルド・ハガティ&エル・シェリーフの持つWWAタッグに挑戦するものの、引き分けで奪取なりませんでした。この後、星野さんはここに残り、小鉄さんはダラス地区(先に述べた通り、エリックがプロモーター就任を持って、ヒューストン地区はダラス地区と改名すべきと私は思っております)に飛びます。小鉄さんはエリックの家に下宿していたらしく、ケビン、デビッド、ケリーら子供達と遊んであげたといいます。時期的に、マイクはまだ赤ん坊で、クリスは生まれていません。

 

星野さんも翌月テネシー地区に転戦しました。2月20日、アラバマ州のバーミンガムで星野さんはこの日は素顔でリングに上がったディック・ベイヤー(ザ・デストロイヤー)に敗れています。その後、星野さんはグレート・ヤマハなどのリングネームを使います。ヤマハというのはみなさまご存知の某メーカーです。当時のアメリカではリングネームになるほど有名だったんですね。

 

ここからしばらく、星野さんはテネシー地区、小鉄さんはダラス地区の日々が続きます。そして7月「グレート・ヤマハが兄弟を呼んできた」という想定で、小鉄さんがテネシー地区に転戦し、ここで「ヤマハ・ブラザーズ」が誕生します。

 

 

さて、ここからが本題です。ダラス地区での小鉄さんがどうだったかということです。

 

小鉄さんはベビーフェイス側にいました。最初は前座でしたが、地区を出る頃には中堅にまで上がっています。トータル的に見て勝率は4割くらいですが、引き分けが多かったようです。一進一退の攻防で、客席を沸かせる役目を負ったのでしょう。

 

主な対戦相手は、ダニー・プレッチェス、マリオ・ミラノ、アルバート・トーレス、マイク・パドーシス、キンジ渋谷、バディ・オースチン、ブルート・バーナード、ターザン・タイラー、バディ・モレノ、ダニー・マクシェーン、ポール・ジョーンズといったおなじみのところと当たっています。よく当たったのは、パドーシスでした。

 

モレノは68年に初めて日本に来ました。11月1日の金曜日の夜、東京・後楽園ホールからの生中継は、小鉄さん対モレノで始まりました。これが目を離せない好勝負で、制限時間の30分はあっという間でした。おそらく手が合ったんでしょう。おかげでメインの馬場&猪木&大木対キラー・カール・コックス&マッドドッグ・バション&レッド・バスチェンはほとんど放送できなかったというオマケが付きました。

 

小鉄さんのダラス地区時代に話を戻しましょう。タッグマッチに出ることは少なかったんですが、まれにはありました。6月13日のダラスでは、ジャック・ブリスコと組んでパドーシス&イクスキューショナーに敗れています。79年、ブリスコが新日本に来た時には解説席で、

 

「ちょっといいですか、古舘さん。ブリスコはですね。テキサスで修行していた時代に一緒になりました。キビキビとした動き、レスリングもできますし、運動神経も素晴らしい。絶対に大物になると思いました。やはり世界チャンピオンになるような人は若い頃から違うんですよね」

 

想い出を語る小鉄さんは嬉しそうでした。

 

晩年の小鉄さんとは主席を共にさせていただく席が何度かありました。ダラス地区修行の話も伺いました。印象深いのは、ディック・レインズの話です。

 

レインズは元レスラーで、小鉄さん修行当時はレフェリーでした。

 

極真空手の創始者大山倍達は52年にグレート東郷に呼ばれ、マス東郷として一緒にアメリカやキューバをでツアーしたことはよく知られています。リング上では瓦割りなど空手の演武に終始したのですが、まれにプロレスラーとしても試合しました。アイオワ州でディック・リールと闘い勝った、という大山本人の弁もあります。レインズは当時、アイオワ州がホームリングで、他にディック・リールと名が似た人物がいなかったことから、私は同一人物と思っております。

 

もしかしたら、小鉄さんが修行時代に、レインズからマス大山の話が出たのを聞いていたのではないか。話を振ってみました。

 

「あのぅ、小鉄さん。ダラスで修行された時、レフェリーにディック・レインズっていませんでした?」

 

「はい。いました。(笑いをこらえて)レインズにはですね。娘さんがおられまして。その娘さんにですね。惚れられてしまったんですよ。私と結婚したかったみたいなんです。で、レインズの娘さんですね。これがまた非常に巨乳で・・・。『ヤマモト』、『ヤマモト』と言いながら寄ってきて、私に抱きつくんです。これには困りました。」

 

座は一挙に盛り上がり、マス大山の話は次でいいやということにしました。

 

しかし、いくらも経たないうちに小鉄さん、2010年8月28日に急死されてしまったんです。レインズ証言は永遠にお預けとなってしまいました。

 

今となっては、貴重な話を伺えた感謝しかありません。

 

 

(レインズ家)