ケネディ・ダラス・鉄の爪・・・ヤングライオン猪木、試練の3番勝負 | 続プロシタン通信

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20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

日本プロレス期待の「若獅子(ヤングライオン)」アントニオ猪木がアメリカ武者修行に出ていたのは1964年3月から66年2月までの丸2年です。うち、ヒューストン地区にいたのは65年6月から11月までのことでした。この時期、猪木は多くの大物に当てられていて「修行」としての効果、絶大なものがあったと思います。

 

「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックとは8月11日のサンアントニオ、13日のヒューストンと、2連戦に2連敗でした。この後、猪木とエリックとの抗争は、タッグ(猪木&デューク・ケオムカ対エリック&キラー・カール・コックス)に様相を変化させます。

 

 

「魔王」ザ・デストロイヤー(ディック・ベイヤー)は8月13日、ロサンゼルスでルーク・グラハムに敗れてWWA王座を失うと、17日のダラスからヒューストン地区に入ります。そして20日のヒューストンで、早速ルー・テーズの持つNWA世界王座に挑戦です。地区入り4日目の挑戦は、やはりデストロイヤーの知名度と実力によるものでしょう。結果は引き分けでした。猪木はこのデストロイヤーに、9月15日のサンアントニオ、17日のヒューストンと、2連戦に2連敗でした。

 

 

 

「荒法師」ジン・キニスキーは、8月31日に約9年ぶりにダラスに登場しました。猪木はこの日、いきなりキニスキーに当てられ、敗れました。この頃のキニスキーはすでに、NWA世界王者のように、全米ツアーを始めております。これは、次期NWA王者としての顔見せキャンペーンだったと思われます。この時のキニスキーのヒューストン地区登場では、殺人的なスケジュールのため、肝心のヒューストンでの試合スケジュールが組めませんでした。

 

 

キニスキーが次にダラスに登場するのは3週間後の9月21日でした。この日、キニスキーはヤンキー2号を、猪木はケン・ホーリスと組んでマーク・ルーイン&グレート・デインを破りました。そして「残った2人が改めて3本勝負行う」ルールのバトルロイヤルが行われ、猪木とキニスキーが残ります。この日のうちに改めて行われたシングルマッチで猪木はキニスキーに1-2で敗れました。1日に3試合行った猪木は3試合分のファイトマネーをもらったそうです。そして翌日のサンアントニオでも猪木はキニスキーに敗れました。

 

 

さて、こう書くと、猪木は「噛ませ犬」だったのか、ということになります。しかし、「噛ませ犬」がエリック、デストロイヤーと、サンアントニオ&ヒューストンの連戦にマッチメークされるのか?また、キニスキーの貴重なダラスのスポット参戦に起用されるのか、という疑問が残ります。答えは、これ以降のダラスのマッチメークの中に隠れていました。

 

9月28日のダラスのメインでペッパー・ゴメスを破ったデストロイヤーは、翌週行われるエリック対キニスキーの勝者への挑戦を表明します。

 

10月5日、ダラスに3度目の登場したキニスキーは、エリックと対戦し、1-1から反則負けとなりました。11月2日ダラスでの再戦も引き分けとなります。また、デストロイヤー対エリックは、11月にダラスに近いフォートワースで行われました。

 

一連のマッチメークから見るに、猪木はエリック対キニスキーの盛り上げ役として使われたことになります。盛り上げ役がしょっぱいと盛り上がらないので、この段階での猪木はプロレスラーとしてかなりの成長を見せていたと推測されます。「噛ませ犬」ではなく「露払い」という言葉がこの時期の猪木には適していたと思われます。

 

「露払い」とは、大相撲の横綱土俵入りに際して、横綱を先導する役ですね。先に歩くことで、控えから土俵に向かう通路に生えている草の露を落としておく役割です。猪木はエリック対キニスキーの盛り上げの先導役として重要な位置にいたのでした。

 

数ヶ月経った66年3月、猪木は豊登にハワイで引き抜かれ、東京プロレスに行くことになります。そして10月の旗揚げ戦で、ジョニー・バレンタインを相手に伝説の名勝負を繰り広げます。その1年前、猪木はテキサスの地で、デストロイヤー、エリック、キニスキーを相手に奮闘していたということになります。

 

 

エリック対キニスキーを盛り上げることは、当時のダラスにとって中長期的にも必要なことでした。

 

66年1月、キニスキーはテーズを破ってNWA世界王者になります。するとダラスでは、エリックの挑戦が取り沙汰されるようになります。そして、66年3月(引き分け)、5月(キニスキーの反則勝ち)、11月(引き分け)と抗争は続きます。この66年、ダラスの実権はエド・マクレモアからエリックに移ります。

 

そして67年7月、ダラス郊外にあるターンパイクスタジアムでキニスキー対エリックの決着戦です。この試合は、テキサス州の興行記録で最大の13,000の観衆を集め、65年8月からのダラスでののキニスキー売り出しは、大きな実を結ぶことになります。猪木は、その成功の種として重要な役割を果たしていたのでした。

 

ちなみにターンパイクスタジアムの第一試合は、ドリー・ファンク・ジュニア対ジャック・ブリスコです。つまり、この日の横綱キニスキー、エリックの露払いを務めていたのはドリー、ブリスコだったわけです。ドリー、ブリスコの、70年代アメリカプロレス界への貢献は語りきれない部分、多々ありますよね。歴史は少しづつ動いていたのでした。