(キラー・カール・コックス)
フリッツ・フォン・エリックのダラス帰還は1964年4月1日のことでした。この日は、サム・スティンボートに反則負けです。この段階で、エリックがプロモーターを兼ねるという話はまだなかったと思われます。エリックはヒューストン地区をサーキットしながら、次期NWA王者候補としてセントルイスやデトロイトなどのビッグマッチにも呼ばれております。
エリックにポスト・テーズの目がなくなったのは、65年の春です。ここでセントルイスのマッチメークも中心がエリックからジン・キニスキーにずれていきます。おそらく、エリック自身がNWA王者よりもダラス&フォートワースのプロモートを選んだ時期に重なると思われます。そして66年の夏、エリックは兼任プロモーターとなります。
アメリカ他地区に出ていたエリックは、他地区の事情でヒューストン地区をちょっとの間離れることもありました。64年10月はまさにそんな期間でした。その10月16日「ヒューストンの惨劇」といわれる事件が起こりました。テーズのNWA王座に挑んだ大木金太郎が、勝ちを焦ってテーズの怒りを買い、コテンパンに叩きのめされて、大怪我を負いました。背景は、ググれば概略などはわかりますが、私がG-Spirits vol.27で詳しく書きましたので、まだの方はご入手ください。
さて、本日のテーマは、大木がヒューストン地区に入ってからテーズ挑戦までの道のりです。まずは、ヒューストンでの戦績を見ていきましょう。
9月18日○キラー・カール・コックス対大木●
9月25日○大木対トルベリーノ・ブランコ●
10月2日○大木対キラー・カール・コックス●
10月9日○大木&デューク・ケオムカ対アルバート・トーレス&ラモン・トーレス●
10月16日○ルー・テーズ対大木●
初戦で敗れたコックスには第3週目で雪辱しています。また、コックス以外にもトルベリーノ・ブランコ、トーレス兄弟と、名のあるところを破っております。テーズ戦に向けて「挑戦者・大木」を丁寧に作っていることが読み取れます。
続いては、ダラスです。
9月15日○大木&デューク・ケオムカ対キラー・カール・コックス&アーノルド・スティール●
9月22日○大木対アーノルド・スティール●
9月29日○キラー・カール・コックス対大木●
10月6日○大木&デューク・ケオムカ対アルバート・トーレス&ラモン・トーレス●
10月13日○大木対ジェリー・ミラー●
コックスには負けっ放しですね。対戦相手の質も若干落ちています。テーズがヒューストン地区に入ってきたのは10月13日からでした。ダラスの観客にとっては大木よりコックスの方が強いので、当然のことでしょう。
こうして見てみると、テーズ対大木はヒューストンのプロモーター、モーリス・P・シゲールのみが熱心であり、ダラスのプロモーター、エド・マクレモアにとってどうでも良かったということになります。シゲールがテーズ対大木をマッチメークしたのは、工作員がいたからです。その工作員も韓国政界の超大物の意を受けていたことは、前後の情勢から見てまず間違いないことです。
韓国政界の超大物とは?ご存じない方は昨日発売のG-Spiritsに当たってください。スーパー・タイガーの表紙が目印です。