(その瞬間)
1953年5月26日エリス・バーシャラに敗れたフリッツ・フォン・エリックは、この日を最後にダラスでを離れました。58年4月の1ヶ月だけダラスに戻ってきて、21日、フォートワースでルー・テーズのインターナショナル選手権(注1)に挑戦し敗れると、間も無く再びダラスから消えます。次に戻ってくるのは64年の4月ですが、すでに大スターとなっていたエリックは、米北部やカナダ大都市のスポット参戦も続けます。ダラスに本格的に定着するのは65年で、66年からはダラス、フォートワースのプロモーターも兼務となります。
エリックの出身地はダラスとヒューストンのちょうど真ん中あたり(双方から約200km)にあるジェウェット(注1)と言う小さな村です。したがって、ダラスもヒューストンも本拠地と言って差し支えありません。つまり、ダラスやヒューストンはエリックにとって「戻るべき街」であり、53年から64年までは武者修行期間だったことになります。
武者修行期間の途中、一度戻ってくるパターンは後にジャイアント馬場、大木金太郎に踏襲されました。
エリック不在中のダラスの大きな出来事といえば、63年11月22日のケネディ大統領暗殺事件ですね。
事件は12時30分に起こりました。ダラス市内パレード中の35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが銃撃され即死です。リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯として処理されたのですが、大統領の被弾状況からオズワルド以外にも狙撃者が存在したのでは、など、いまだに多くの謎を残しています。
政治的、社会的な背景については、ここでは踏み込みません。では何を述べたいのかと言うと、当時のプロレスの状況です。
当時のダラスが「ヒューストン地区」の一地方都市であったことはすでに述べました。当時のヒューストン地区のサーキットコースは以下の通りです。
(月)フォートワース
(火)ダラス
(水)サンアントニオ
(木)オースティン
(金)ヒューストン
(土)小都市スポット
他のテリトリーもそうなんですが、当時、日曜日には原則として興行がありませんでした。
ケネディ暗殺があったのは金曜日です。この日、プロレス界はファンに一体どんな試合を提供していたのでしょうか。
ロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムでは、WWA世界ヘビー級選手権が行われ、ベアキャット・ライトがエドワード・カーペンティアと引き分けて王座を防衛しております。セミファイナルではドン・レオ・ジョナサン&フレッド・ブラッシーがリップ・コリンズ&チャック・コンレーのスキャッフリング・ヒルビリーズを破りました。
金曜日夜の東京・リキスポーツパレスではバディ・オースチン&イリオ・デ・パオロが力道山&吉村道明を破っています。力道山組の敗因は、2人がかりの攻撃に出た日本側が、力道山の空手チョップが空を切ったことで吉村が悶絶したことです。
「ケネディ大統領が暗殺されても、東京スポーツはそれを一行も報道しなかった。翌日の見出しは『力道山、血の海で悶絶』だった」
という都市伝説があります。前半は正しいです。東京スポーツはケネディ暗殺を全く報じていません。が、後半は違います。『吉村、血の海で悶絶』でもありません。『力道不覚、新兵器も不発』です。
セントルイスのキールオーデトリアムでは米北部武者修行中のフリッツ・フォン・エリックがテーズのNWA世界タイトルに挑戦、反則負けに終わっております。セミでは、ウイルバー・スナイダー&ボブ・エリス&ジョン・ポール・ヘニングがディック・ザ・ブルーザー&ビル・ミラー&リップ・ホークを破りました。
ではヒューストンはどうだったのでしょう。実をいうと興行がありませんでした。おそらく、テーズをセントルイスに取られたためでしょう。その代わり、翌土曜日に行われております。メインはダニー・ホッジがテーズに挑戦するNWA世界戦、90分時間切れ引き分けでした。レフェリーは後にAWAでシーク・アドナン・エル・ケーシーを名乗る、当時のビリー・ホワイトウルフでした。
もし、この地区の金曜日の興行がダラスだったらどうなっていたでしょう。おそらく中止にされたと思います。ケーシーは証言します。
「この年の11月22日、私とタッグパートナーであったハロルド坂田はヒューストンに住んでいた。私はちょうど1957年型シェビー(シボレー)・ベルエアを購入していた。
その日はテレビのインタビュー収録のため、二人でフォートワースに向かっていたんだ。
メインロードに入った時、ポリスが全ての車を止めて、大統領が間もなくここを通過すると言った。私と坂田は少しでもよく見えるようにとボンネットの上に立ち、その時を待ったよ。
そしてパレードは私たちの車のすぐ脇を通った。すると坂を下って200ヤードいかないうちに、銃声が聞こえたんだ。
5分もしないで大統領の車がもと来た道を戻ってきた。
通過する車に大統領が横たわっているのが見えたのだが、それはまるで眠っているように見えた。1時間後くらいに私たちはその事件の全容を知ったのだが涙が流れたよ。
2時間後、ポリスがやってきて調べを受けた。このままではオースチンでの試合開始に遅れてしまうと伝えたら、このポリスはファンだったのか、すぐに行かせてくれたな。」
よくぞ証言してくれた、と、思うのですが、記憶違いがあります。ハロルド坂田は恐らくデューク・ケオムカでしょう。オースチンもヒューストンの間違いだと思います。テレビ撮りに関しては、ダラスのプロモーター、エド・マクレモアが地区全体のものを仕切っていたようなので、ダラスから近いフォートワースで行われていたのでしょう。
(ケーシーが見た光景)
ご参考までに、ケネディ暗殺直後のダラスでの興行の試合結果です。日付は11月26日(火)、会場はスポータトリアムでした。
(ハンデ)○ブル・カリー対ルイ・ティレー&ジーン・ティレー●
○ダニー・ホッジ対デューク・ケオムカ●
○ジョー・ブランチャード対ダニー・マクシェーン●
○チーフ・ホワイト・ウルフ対スタン・スタージャック●、反則
○ペドロ・パティーノ対プリティボーイ・パターソン(パット・パターソン)●
△タイガー・コンウェイ対ピエール・ラサール△
(注1)この王座は8月にロサンゼルスで力道山に移動する。
(注2)ブラインド・レモン・ジェファーソンの出身地、クーチマン(Couchman)から車で30分くらいしか離れていない。