1952年11月11日、テキサス州ダラスで行われたNWA世界ジュニアヘビー級選手権、王者ダニー・マクシェーン対挑戦者ワイルド・レッド・ベリーの一戦は、三本目、マクシェーンがベリーを場外でボディスラムし続けたため反則を取られ、挑戦者の勝ちとなりました。そしてベリーはベルトを持って会場を去りました。しかし、翌日から判定でもめました。27日、同じテキサス州ガルブストンで行われた再戦では、マクシェーンが勝利し、王座も元の鞘に収まりました。・・・<1>
(左マクシェーン)
12月10日、サンアントニオで行われたテレビ収録に、少なくないレスラーがボイコットし、現れませんでした。そしてダラスのプロモーター、エド・マクレモアはNWAから脱退し、翌年から全く新しいレスラーで興行を打つこととしました。それまでマクレモアはヒューストンのプロモーター、モーリス・P・シゲールから選手の供給を受けていました。・・・<2>
12月29日、8人のレスラーが、マクレモア、ダラスのマッチメーカーのドック・サーポリス、ダラスのKRLD-TV、テキサス・ラスリン&ドンキング広告代理店を「録画されていた彼らの試合が再放送されたため、興行収入を悪影響を与えた」という理由で訴訟を起こしました。8人のレスラーは以下の通りです。
レイ・ガンケル
サイクロン・アナヤ
ダニー・マクシェーン
ゴリー・ゲレロ
ドリー・ファンク・シニア
レッド・ベリー
リッキー・スター
ビリー・バルガ・・・<3>
<1>~<3>の事件は一本の糸でつながると私は思います。以下、推測です。
<1>の事件は、マクレモアがNWA世界ジュニアヘビー級王座のテキサスバージョンを作るために勝手に突っ走ったのでしょう。NWAとシゲールの二重支配に飽き飽きとしていたのだと思います。しかしそのたくらみは、27日、ガルブストンで覆されました。以後、マクレモアはシゲールと話し合ったのでしょうが決裂し、腹いせにマクレモアは「レスラーは皆、俺の方についているんだぜ」とばかりにレスラーをサンアントニオに送らなかったんでしょう。それが<2>です。ところが、レスラーは寝返ったんですね。<3>の原告団に名を連ねることは、州のアマリロ周辺以外をを支配するプロモーター、シゲールが与えた「踏み絵」だったと思います。
年が明け53年。ダラスの火曜日は、マクレモアと、シゲールの傀儡プロモーターでヒューストンから進出してきたノーマン・クラークが同時に興行を打つ戦争となりました。マクレモアの下には無名の選手しか残りませんでした。仕方なく、カンザス州ウイチタのプロモーターでかつてのゴールド・ダスト・トリオの一人、ビリー・サンドウ、怪奇系レスラーを抱える独立系プロダクションの社長ジャック・フェファーに泣き付きます。さらに、あまり仕事(試合)を与えられていなかったレスラーにも声をかけます。・・・<4>
マクレモアは興行の柱として「世界王者」が欲しい、そこで担ぎ出したのがサンドウ配下のロイ・ダンです。
NWAに戦前からあるNational Wrestling Associationと、戦中にできたNational Wrestling Allianceがあることはご存知だと思います。74年、ジャイアント馬場がジャック・ブリスコを破って得たNWA王座は後者です。ロイ・ダンはNational Wrestling Allianceのルーツとなる王座に、地盤があるカンザス州ウイチタで就いたことがあります。
(NWA独立後、53年1月6日マクレモア新規旗揚げ戦のプログラム。写真はロイ・ダン)
一方、クラークは最初からNWA系の豪華選手がいます。さらにNWA世界ヘビー級王者、ルー・テーズも定期的にやってきます。シゲールは、フラッグタイトルのテキサスヘビー級の他に、ブル・カリーを活かすために「テキサス・ブラスナックル王座」を新設しました。プロレスでは本来、握り拳によるパンチが禁止されています。ブラスナックル王座は握り拳によるパンチを許すルールでの王座です。いうなれば「喧嘩王座」ですね。・・・<5>
(右、カリー)
マクレモアは主張しました。
「ロイ・ダンはかつてテーズに5回勝っている。そして、テーズの前にNWA(National Wrestling Association)王者だったエベレット・マーシャルを破って以来の王者である。」
ダンがテーズに勝ったことがあるのは事実です。しかし回数は1回だけで、それは1940年3月25日、地元ウイチタでのことでした。また、マーシャルに勝ったのも事実ですが、それはマーシャルがテーズに敗れた後のことでした。
更にマクレモアは4月21日、「ダラス・モーニング・ニュース」紙上で、クラークがレイ・ガンケル対デューク・ケオムカのテキサスヘビー級選手権の開催を発表したことを受けて。
「1000ドルを進呈するから、ガンケル対ケオムカの勝者、もしくはテーズはダンとの試合せよ」と宣言します。・・・<6>
(ルー・テーズとマネージャーのエド・ストラングラー・ルイス。ルイスと、ダンの後ろ盾サンドウは20年代のゴールド・ダスト・トリオの一員だった)
まあ、興行戦争につきものの、ネチネチとした罵りですね。ガンケルは、
「やってもいいぜ。いただいた金は慈善団体行きだ」
と応えます。
(ガンケル)
しかし、興行戦争の決着としての団体対抗戦は実現しませんでした。
というのは、翌5月22日に2人のプロモーターは和解し、マクレモアとシゲールは元の協力関係に戻ってしまったからです。
ところでこの構図、どこかで見た覚えありませんか。そうです。71年アントニオ猪木の「クーデター未遂」、日本プロレス追放から新日本、全日本旗揚げの流れです。
<1>は、猪木が71年11月ごろ、何かをやらかした(「クーデターを企画した」とされた)こと、
<2>は、猪木が12月9日、大阪でドリー・ファンク・ジュニアの持つNWA挑戦試合を欠場したこと、
<3>は、日本プロレスが12月13日、猪木の追放を発表したことです。原告団は猪木追放に祝杯をあげたレスラーたちに当たります。
(1971年12月13日。入り口のそばにいる木戸修は乾杯には加わっていない、つまり踏み絵を踏んでいない。間も無く日本プロレスを脱走し、猪木のもとに駆けつける)
<4>は、新日本プロレス旗揚げです。「外人選手がしょぼかった」こととどこか通じるものがあります。
<5>は、全日本プロレス旗揚げです。豪華選手の独占なんて、全く同じですね。
<6>は、新日本プロレスがカール・ゴッチを担ぎ出したことです。
違うのは、ダラス興行戦争がすぐに収束したのに対し、新日本と全日本の戦争は長々と続くことです。
ここで、<4>を見返してください。私は「あまり仕事(試合)を与えられていなかったレスラーにも声をかけます」と書きました。声がかかったレスラーの中に、前年デビューしたものの、あまり仕事(試合)を与えられていなかった新人、ジャック・アドキッソンがいました。アドキッソンのダラス・デビューはマクレモアの新年第二回興行、1月8日の対ニール・ファーマー戦です(結果不明)。
そういえば、71年の日本プロレスもレスラーの数が多くて試合にあぶれる者、特に新弟子に多かったですね。ところが新日本プロレスはレスラーの数が少なかったので、新人でもドンドン試合が組まれます。記録を見ると、日本プロレス時代の「炎の飛龍」藤波辰巳(71年5月デビュー)は試合数が少なく、毎日のように試合が組まれるようになるのは翌72年3月の新日本プロレス旗揚げからです。72年新日本の藤波に当たるのが、53年ダラスのアドキッソン、つまり「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックです。エリックのダラスデビューの状況は、新日本旗揚げ直後の藤波と、ほとんど同じ状況だったのでした。
<注>
ダニー・マクシェーン(米)一九一二~一九九二、主要王座:NWA世界ジュニアヘビー級。試合中自らの額を傷つけ流血戦を自己演出する「カット」のパイオニア。ブル伊藤、グレート東條時代を含め約二〇回対戦。流血王東郷の師匠と位置づけられる。
ブル・カリー(米)一九一三~一九八五、主要王座:テキサスブラスナックル(二四回返り咲き)。左右のつながったゲジゲジ眉毛に特徴づけられる特異な風貌から「類人猿」の異名をとる。殴る、蹴るだけのファイトで人気を維持した。
ロイ・ダン(米)一九一〇~、主要王座:NWA世界ヘビー級。業界の主流からはずれたアウトロー。興行戦争を仕掛けようとするプロモーターにしばしば「世界王者」にでっち上げられる。
ルー・テーズ(米)一九一六~二〇〇二、主要王座:NWA世界ヘビー級。天性の運動神経、眼の良さ。スタンドそしてグランドのテクニック。五七年の初来日で、日本人に「上には上がいる」と知らしめたプロレスの横綱。百年ぶりに訪れた黒船。
レイ・ガンケル(米)一九二四〜一九七二、主要王座:テキサスタッグ。四八年のロンドン五輪ではガニア、ハットンと優秀な的な多く、代表の座を逃す。プロ入り後、長くジョージア地区でトップを張り、また、ブッカーの地位にもあった。
フリッツ・フォン・エリック(米)一九二九~一九九七、主要王座:AWA世界ヘビー級。ニックネームは「鉄の爪」大きな掌をガッと広げる。場内が凍りつく。コメカミを掴まれた馬場がもがき、キャンバスに倒れる。それでも手は離さない。指と指の間から血が流れ始める。