ケネディ・ダラス・鉄の爪・・・バレンタインとコワルスキー | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

夏草やつわものどもが夢の跡

 

松尾芭蕉が平泉で詠んだ句です。

 

夏が来てかつての盛況を懐かしむ。

 

47年前のダラスは熱い夏でした。

 

本日は、70年の夏にダラスで大暴れだったジョニー・バレンタインとキラー・コワルスキーに焦点を当ててみます。

 

 

 

バレンタインのダラス地区滞在は前年1月にジョージア地区から入ってきて以来、72年3月、フロリダ地区とデトロイト&オハイオ地区を兼ねるようになるまで続きます。途中、70年11月から12月まで日本プロレスに遠征します。ここではヒール陣営のトップでした。

 

 

コワルスキーは70年4月に東部地区(WWWF)から入ってきて、71年2月、オーストラリアに出るまでここに滞在しました。バレンタイン同様ヒール陣営のトップでした。

 

ならばタッグを組んでも良さそうですね。

 

はい、6月6日サンアントニオでこの2人はコンビを組んで、ミル・マスカラス&ワフー・マクダニエルに反則勝ちしました。ところが、8日のフォートワースで2人ははシングルで対決し、コワルスキーが勝っています。

 

では、ここのボス、エリックとの戦いはどうなっておりましょう?

 

バレンタインは、シングルでの対戦はありませんが、タッグでならありました。3月24日のダラスでバレンタインはボリス・マレンコと組んでエリック&マスカラスに反則負けしています。エリックはベビーフェイスだったんです。かつて、58年4月11日にはヒューストンでティームを結成したこともありました。

 

コワルスキーは、7月7日にダラスでバレンタインとのシングル対決に勝利しています。当時すでに大ベテランの2人でしたが、これがシングル初対決です。タッグも含めて初の絡みでした。意外です。

 

「ゴング」1970年10月号より、ダラス地区での2人の様子を引用します。

 

「テキサスで3人バトル」

 

テキサス州ダラスのスポータトリアムで奇妙な試合が行われた。これは”トライアングラー”と呼ばれる”3人のバトルロイヤル”試合。

 

出場したのは”殺人鬼”キラー・カール・コックスと”ロシアの雄”ザ・グレート・マレンコ、そして”金髪のジェット機”ジョニー・バレンタイン。なんとこの試合のレフェリーをつとめるのがフリッツ・フォン・エリックという豪華版。

(注:実は、もう一人レフェリーがいて、それはワフー・マクダニエルだった)

 

試合はスタートから荒れに荒れたが、まずコックスが狙われた。バレンタインとマレンコのダブル・エルボー・スマッシュ攻撃を集中されたコックスは無念のリングアウト負け。

 

続いてバレンタインとマレンコの対決となったが、この日のバレンタインは十八番のエルボー・ドロップが実によく出た。さすがにタフなマレンコもたまらずリング下に落ちたが、バレンタインはこれを追ってリング下へ。

 

止めに入ったレフェリーのエリックに一発おみまいするなど猛ハッスル、とうとう勝利をにぎってしまった。

 

「冷血コワルスキー テキサスへ進出」

 

テキサス州マットに珍しいレスラーがやってきた。その名はキラー・コワルスキー。これまたベテランのロニー・エチソンとともにブッキングしたのだが、早速激しい試合をやっている。

 

コワルスキーの場合は大物とあって”特別待遇”・・・ダラス、ヒューストンなどを主要マーケットとする東テキサスのサーキット・コースだけでなく、アマリロなど西テキサスにもサーキットする。

 

(注:結果的に西テキサスには行かなかった)

 

コワルスキーの狙いは鉄の爪エリックだが、ドリー・ファンク・ジュニアへの挑戦も準備している。

 

+ + + + +

 

コックス、マレンコ(ジョー&ディーンの父親)、バレンタインによる3人バトルが行われたのは、5月19日のダラスでした。この頃のダラスのマッチメークの流れを見てみましょう。

 

5月12日、2週間後にやってくるドリー・ファンク・ジュニアへの挑戦権利をかけてワンナイトトーナメントが行われました。

 

(決勝)○キラー・コワルスキー対ニック・コザック●

 

(準決勝)○コザック対キラー・カール・コックス●

 

○コワルスキー対ワフー・マクダニエル●、判定

 

△ジョニー・バレンタイン対ミル・マスカラス△、両者失格

 

19日、ゴングが紹介した3人バトルの他、マスカラスがコワルスキーに反則勝ちし、ワフーはリッパー・セキューナ(バロン・シクルナ)を破りました。

 

そして26日、コワルスキーはドリーのNWA世界王座に挑戦しましたが、反則負けで奪取なりませんでした。また、バレンタイン対ワフーは引き分けに終わりました。

 

かように、70年のダラスの暑い夏は、毎週が昭和全日本プロレスの世界最強タッグのようなメンバーで行われていたのでした。