懐かしのエッセイ・・・ジン・キニスキー | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

私がプロレスを見はじめた68年、NWA世界ヘビー級チャンピオンはジン・キニスキーであった。

 

この年の暮に来日し、第一戦の場所は室蘭、相手は猪木。60分1本勝負のこの試合は若獅子アントニオ猪木が果敢に攻め、20分を越える長丁場の戦いになる。コブラツイストが決まるがロープに逃げられブレイク。しかしやはり、牙城崩しがたく岩石落としによって惜しくも敗れ去った。私にとってこの試合は、猪木の初めての大物外人とのシングル、初めてのコブラでキブアップとれず、初めてのシングル敗戦という意味で思い出に残る。しかし小学生の目にもキニスキーと猪木は「大人と子供」であった。

 

年齢的な問題もあったと思う。が、日本プロレス時代の猪木は、大物外人を相手にしたときは位負けしていた。この試合から2か月余りで、キニスキーがアメリカフロリダ州タンパで、猪木と同世代で似たファイトスタイルのドリー・ファンク・ジュニアに敗れてしまうんだから世の中わからない、と思った。それくらい当時のキニスキーには「強さ」を感じた。

 

1週間後の馬場に挑戦したインター戦(この年まで、世界チャンピオンを呼んでも、馬場のインターに挑戦させるのが原則であった)、ルールは90分3本勝負。1本目のゴングが鳴ってから両者1分近いにらみ合い、すぐには組み合わない。そのあたり、さすが馬場対キニスキーにもなるとちがうもんだ、と思った。1本目は16文キックで仰向けに倒れ、勢いで両足が上がったところを馬場がエビに固め、2本目はキニスキーがとった。生中継のこの試合はここで放送時間切れ。次週放送された3本目。馬場が意外にもコブラツイストに出る。ちなみに、この技は猪木の当時のフィニッシュホールド、つまり代名詞で他人の技を使うなんてタブーだった時代だから、まさしく「掟破り」であった。キニスキー、ロープに逃れようともがくものの、馬場びくとも動かない。観念したキニスキー、レフェリーのオキ・シキナのシャツをつかみ自分達に当ててコブラをはずす。オキ・シキナ、ゴングを要請、馬場の反則勝ちとなった。

 

70年暮れ、前年ドリーに敗れ丸腰になったキニスキーは、ジョニー・バレンタインとともに来日する。BI砲にとって大先輩のこの2人はチームを作李、インター・タッグに挑戦した。結局BI砲が勝つが、内容的には大苦戦であった。

 

シングルの方はキニスキーが再び馬場のインター王座に挑戦した。3本目、バックドロップでキニスキーが馬場を破り、タイトルは海外流出となった。この試合は好試合であったが、ロスで行われたリターンマッチは凡戦であった。

 

このころのキニスキーは試合前に贈呈された花びらを、リングサイドにいる老婦人にプレゼントする。また、タッグマッチでは、自軍コーナー、相手コーナーのタッチロープの長さが等しいかどうかをチェックしてから試合に臨むのを日課としていた。他のレスラーがこれをやると、イヤミになるが、キニスキーの場合は風格と微笑ましさを同時に感じられた。

 

私がキニスキーを喜んで見れていたのはこの時代までで、それ以後はマンネリ化とロートル化が目につくようになった。

 

馬場はキニスキーをこう評する。「キニスキーは戦っていて気持ちのよいレスラーだ。裏をかいたりすかしたりということがなく、ストレートに勝負が挑める。試合の組み立てもしやすい」アンチ・プロレス派からは揚げ足をとられかねない発言だが、背景の深さを感じさせる発言でもある。

 

新日と全日が激しく対立していた80年代初頭、猪木はラッツ&スターの鈴木氏とテレビで対談した。

 

自分の名勝負について「国内ではドリー・ファンク・ジュニア、海外ではジン・キニスキー」と答えている。下手すると全日の宣伝になる危険を冒してでもキニスキーをあげた猪木のプロレスラーとしての性(さが)が好きだ。

 

日プロ崩壊とともにキニスキーの日本での戦場は全日に移るが、大して印象に残る試合はない。いわゆる「レトロ企画」での来日は挨拶のみで試合はなし。ファミリー軍団対悪役商会withブッチャーの試合中、リングにかけあがりブッチャーの胸に平手打ちをカマス。それも、うれしそうにニコニコしながら。これも猪木とは違った意味で、やはりプロ・レスラーとしての性(さが)であろう。私はこのキニスキーの性(さが)も好きだ。

 

(1996年頃に書いたものです)