マフィアとプロレス・・・アメリカ版鼠小僧デリンジャー兄弟 | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

現在、国土交通省のノンキャリア役人となっているC君は帰国子女です。帰国後入学した私立D中学校、夏休み社会科の宿題は自由研究でした。C君はテーマに「ヤクザ」を選びました。

 

きっかけは、夏休みの前日にテレビ東京「懐かしのメロディー」で流れた、東海林太郎の「赤城の子守唄」です。赤城の山といえば国定忠治、ヤクザの親分です。歌い込まれているエピソードは理解できました。この唄が戦前の日本でヒットしたこともわかりました。しかし、ヤクザ、つい先日まで暮らしていたアメリカでいえばギャングなんでしょうが、西部の荒くれ者の唄はあってもギャングが題材になっている唄、聞いたことありませんでした。まだまだ中学生だったC君には社会学者のような分析は出来ませんでしたが、結論として「アメリカと日本で、ギャング(ヤクザ)に対する捉え方が違う」「アメリカでは大衆とギャングとの間に断層のような境目があるが、日本では世間とヤクザは地続きだ」ということを書いて出しました。これを読んだ先生は「私には理解できない」と、論評は投げ、努力点のみをつけたといいます。

 

ジョン・デリンジャー(1903~1934)は米インディアナポリス出身のギャングです。30年代前半銀行強盗を繰り返し、脱獄したり、脱獄を幇助したり、刑務官を買収したり、と、FBIからは"Public Enemy No.1"(社会の敵ナンバーワン)の称号を受けました。

 

インディアナ州グリーンキャッスルの銀行に押し入ったときのことです。ある農夫の前に札束が積み上がっています。

 

「その金は、あんたのものか、それとも銀行のものか?」

 

「俺のだ」

 

「取っておきな」

 

デリンジャーは農夫の金には手をつけず、銀行の金を袋に詰めて悠々と出て行ったそうです。そんなこともあって人々には「義賊」ともてはやされました。我が国で好かれた泥棒といえば「鼠小僧・次郎吉」です。ということは、デリンジャーを単なる「ならず者」と切り捨てない感性はアメリカ人にもあったということで、「義賊」好きは万国共通なのでしょう。

 

さて、インディアナポリスでプロレスといえば、ディック・ザ・ブルーザーですね。前回述べたようにブルーザーはシカゴの大スターでした。64年以降はプロモーターも兼ねていて、経営している団体はジョン・デリンジャーの出身地、インディアナポリスにありました。ウイルバー・スナイダーとの共同経営で、我が国では一般に「WWA」とか、「インディアナポリス版WWA」とかいわれています。以降、ブルーザーの団体を「WWA」と称します。

 

68年10月11日、インディアナポリスのテレビマッチにフランクとジャックのデリンジャー兄弟が出現します。まずはチャック・エドワーズ&タイガー・フィルを噛ませ犬としていたぶります。そして翌69年1月24日にはブルーザー&クラッシャーの持つWWA世界タッグに初挑戦し、反則負けです。ブルーザー&クラッシャーはこの年の夏来日し、一度はジャイアント馬場&アントニオ猪木を破ってインターナショナルタッグ王者になっています。

 

「ブルーザーとクラッシャーが一度に来るなんて大変だ」

 

我が国では大層恐れられましたが、インディアナポリスではベビーフェイスでした。

 

さて、デリンジャー兄弟ですが、普段はデリンジャー・ブラザーズではなく「チェーンギャング」を名乗りました。この文でも以降は「チェーンギャング」と称します。彼らのコスチュームは暴走族風です。暴走族といっても日本のものを想像しないでください。この年の暮れに「オルタモント・フリーコンサート」(ロック・フェスティバル)の警備を請け負い、警備中に殺人を犯した「ヘルスエンジェルス」のようないでたちです。はい、ご存じない方はググって下さい。

 

「チェーンギャング」は2度のメンバーチェンジが行われました。

 

初代:フランク&ジャック・デリンジャー

 

2代目:ジャック&ジム・デリンジャー

 

3代目:ジム&ケン・デリンジャー

 

2代目のデビュー戦は10月18日のインディアナポリスで、ボボ・ブラジル&スナイダーを破りました。

 

3代目は私が便宜上名付けただけで、実際のティーム結成は72年1月13日の一度だけです(インディアナポリスでポール・クリスティ&トム・リンチに勝利)。

 

チェーンギャング、すなわちデリンジャー兄弟はジョン・デリンジャーと縁つづきではないことは明白です。が、「義賊」ジョン・デリンジャーの記憶を都市として持つインディアナポリスでそんなことは関係ありません。

 

ここで、4人のデリンジャーの素性を明かしておきましょう。

 

(フランク・デリンジャー)

 

フランクは本名ケネス・マクミュレンであることがわかっているだけで、フランク・デリンジャーとしてではなく他の名前での活躍ぶりはつかめませんでした。

 

(ジャック・デリンジャー)

 

ジャックは本名はドン・コルト、レイ・スティーブンスと兄弟になる時はドン・スティーブンス、ジャッキー・ファーゴと兄弟になる時はドン・ファーゴです。一般的にはドン・ファーゴとして有名です。フロリダのペンサコーラ出身と言われていますが、プロレス入り前にはペンシルバニア州ピッツバーグでボディビルダーとして有名で「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノが憧れていた人物だったそうです。

 

Tシャツを着ているのか、素肌なのかわからないほどの入墨が入っています。ドラッグ漬の日々を送っていて、自分の太腿に射撃したり、自らの男性自身に釘を刺したり、とにかく危ない方です。更に、76年のアントニオ猪木対モハメド・アリ戦に合わせて全米でビッグマッチが打たれた際には「危険だ」と敬遠され相手がいなかったウイレム・ルスカの相手に立候補しました。それも勝つ自信があったからではなくファイトマネー欲しさです。兎に角、変な方です。

 

 

(ジム・デリンジャー)

 

ジムは本名はチャールズ・ハリスです。69年デトロイトでポール・デュプリを名乗ってエミール・・デュプリとのコンビで「ヘルスエンジェルス」を名乗ったことがあります。先に述べた暴走族の名をパクったのですね。面白いのは暴走族の方の「ヘルスエンジェルス」が殺人事件を起こす前からこの名を名乗っていたことです。その時代に一緒になったグレート小鹿さんは、客を沸かせる技術にかけては天下一品だったといいます。何しろ巧かった、と。

 

ALASさんのサイト「廿軒家プロレス」には「奇想天外。その言葉しかない。クリスって奴は公私関係なく、とんでもなく奇想天外だった。週7日24時間営業でひたすらセックス・ドラッグ・アンド・ロックンロール、そんな奴だった。でもそんな奴がリングに上がると、異彩を放つってわけだ」(エド・モレッティ)とあります。

 

(クリス・コルト)

 

結局、4人のデリンジャーは来日していません。が、ジムはクリス・コルトの名で73年春の全日本プロレス「ジャイアントシリーズ結集戦」に来るところでした。しかし、開幕戦には現れませんでした。来日直前のジムはアマリロ地区にいましたが、ドタキャンで試合に穴をあけることも多かったようです。ついでに全日本のシリーズもドタキャンしたわけです。また、このシリーズ、ベアキャット・ライトも同じように穴を開けます。全日本は代打としてスタン・スタージャックをダラス地区から呼びますが、開幕戦には間に合いません。あと1試合は組みたかった全日本は国際プロレスの吉原社長に相談し、急遽実現したのが伝説の名勝負、マイティ井上対寺西勇の「国際プロレス提供カード」でした。

 

チェーンギャングとしての一番充実していたのは2代目でしょう。2人とも本当の意味で私生活を含めて変で、危なさはブルーザー&クラッシャーどころの話ではありません。馬場&猪木レベルの強豪相手よりも試合巧者の中堅相手の方が魅力を発揮するタイプだったと思います。相手として、吉村道明&グレート小鹿なんかどうでしょうね。

 

(ケン・デリンジャー)

 

さて、シンガリのケンは70年9月に出現し、シングルで闘うことが多かったようです。本名はケン・ラッセルです。

 

WWAからデリンジャー兄弟が完全に消えるのは、75年も押し迫った12月26日のインディアナポリスでのことす。この日ケンはスパイク・ヒューバーに敗れています。ケンの最後の役割はブルーザーの娘婿の咬ませ犬だったんですね。プロレス史上、デリンジャーを名乗る者はまだまだ出現した形跡はあります。が、ここではジョン・デリンジャー出身地であるインディアナポリスに物語の舞台をとどめます。確かにデリンジャー兄弟はヒールとして闘いました。しかし、これだけメタクソだと、街の伝説のメタクソ人物ジョン・デリンジャーの再現は十分に行えていたと思います。