ボボ・ブラジルの政治経済学・・・ボボ・ブラジルの南部進出 | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

ボボ・ブラジル(1924~1998)は、ミシガン州ベントンハーバー出身です。両親はミシシッピ州出身で、ボボが生まれる前、もしくは生まれた頃にベントンハーバーに越したと聞いたことがあります。これは20年代のアメリカ北部の工業化に対応して、両親が移住したもので、多くの黒人が辿った道です。その人口移動に対応して、ニューオリンズ発祥のジャズはシカゴ、セントルイス、ニューヨーク、カンザスシティ、西海岸へと広がっていくことになります。ちなみに、ボボの両親と同じような移動経路でデトロイトに移ったベリー・ゴーディ・ジュニアは59年、黒人の黒人によるレコード会社モータウンレコードを設立し、ダイアナ・ロス、スティービー・ワンダー、マイケル・ジャクソンを世に出しました。

 

ベントンハーバーはデトロイトと同じミシガン州にありながら、エリー湖のそばのデトロイトよりも、ミシガン湖沿岸のイリノイ州シカゴに近く、シカゴ都市圏と言っていいでしょう。

 

ボボが業界入りしたのは1947年のことです。世界王座まであと一歩だったシカゴのスター、ジャンピング・ジョー・サボルディに弟子入りし、稽古をつけられました。ジャンピングのニックネームから推測できるようにドロップキックの人で、創始者のようです。47年当時のサボルディはレスラーとリング屋を兼ねていて、ボボはリング屋の仕事も手伝いました。

 

ボボの記録に残るデビューは49年ですが、すでに47年の段階でリングに上がっていたという話もあります。50年7月にはシカゴデビューを果たしました。

 

プロレスラー、ボボ・ブラジルの芽が出たのはトロント地区に転戦してからです。トロントのメイプルリーフガーデンのリングに初めて上がった51年11月22日で、この日は大相撲の高砂親方が現役時代の四股名前田山のリングネームで「スモーマッチ」を行い藤田山に勝っています。

 

ルー・テーズの持つNWA世界王座に初挑戦したのもこの地区で闘っている時でした。53年6月8日、オンタリオ州ナイアガラフォールズで力及ばず、テーズの連勝記録、いわゆる936連勝に貢献することになりました。同じ年の10月にはサンフランシスコデビューを果たしました。そして翌54年3月には同じカリフォルニア州のロサンゼルスに進出です。

 

この54年、アメリカ社会を揺るがす大事件が起きています。南部アラバマ州で起こった「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」です。きっかけは、54年モンゴメリーでのバスの座席の揉め事、これがアメリカでの公民権運動のきっかけとなっていきます。

 

そしてその翌年、ボボはNWA総本山セントルイス、世界格闘技の中心地ニューヨークに進出します。セントルイス進出の伏線は、有名な「テーズ連勝ストップ事件」でした。

 

55年3月、サンフランシスコでの対レオ・ノメリーニ戦でテーズの連勝がストップします。ボボはその前座に出ていてシャープ兄弟の弟の方のマイクと引き分けました。テーズのノメリーニへの敗戦、決まり手は「反則」でした。タイトルが移動したのか、しなかったのか、NWAは話題盛り上げのため敢えて「曖昧」にしました。テーズ、ノメリーニ双方はNWA世界王者として防衛の旅を続けます。そして7月のセントルイス、決着戦にてテーズが勝ち、元の鞘に収まりました。

 

ボボがセントルイスデビューしたのはその日でした。予定された相手は、やはり黒人レスラーのパイオニアといわれたジム・ミッチェルでしたが、ベアキャット・ライトが代わりに出てきました。ボボが勝利しています。プログラムには「ニグロマッチ」と但し書きがあります。

 

この頃まで黒人対白人の試合は稀でした。対戦相手の白人が嫌がったからです。そんな状況を、打破したボボは「プロレスにおけるジャッキー・ロビンソン」と言われます。観客がボボ対白人をみたがった状況に、マッチメークが動いたのですね。ジャッキー・ロビンソンは黒人リーグからメジャー・リーグに進出した野球選手で、詳しくはググってください。しかしながら、50年代半ばのセントルイスでは、ボボ登場に際して敢えて「ニグロマッチ」と入れる、そんな時代だったのです。

 

ニューヨーク市に進出したのはこの年の10月。なのですが、MSGではありません。MSG進出はずっと遅れて62年5月。ちょうどジャイアント馬場が武者修行していた時期です。

 

さて、ここまで読まれて何かお気づきでしょうか。ボボの試合の地は、50年代まで、すべてアメリカ北部、カナダ、そして日本(57年初来日)なのです。

 

ボボが南部に進出するのは、60年代に入ってからで、それは公民権運動の進行と軌を一にしています。

 

やはり、50年代まで南部での黒人をリングにあげることは難しかったのでしょう。黒人の所得が低く、チケット購買ターゲットになりにくいこと、ヒールとしてブーイングを浴びせれば「差別」で炎上する可能性も考えられたこと、ベビーフェイスとしていたぶれば、当時問題になっていた「リンチ」(ビリー・ホリデー「奇妙な果実」をご参照ください)を想起させたこと、理由は色々と考えられます。

 

以下、南部主要都市、カッコ内はボボ初登場の年月をあげます。

 

アトランタ(61年5月)

 

タンパ(63年10月)

 

メンフィス(74年6月)

 

ダラス(74年8月)

 

ヒューストン(74年8月)

 

シュリーブポート(75年10月)

 

シャーロット(77年4月)

 

アマリロ(参戦なし)

 

ニューオリンズ(参戦なし)

 

アトランタ、タンパは南部ですが、北部的なマッチメークの取り入れが早かったエリアです。それでもボボ登場には、60年代まで待たねばならなかったのですね。南部、北部のマッチメーク方法の違いについては既に書きました。

 

ボボがタンパに登場する直前の8月、ワシントンDC大行進では、マーティン・ルサー・キング・ジュニア牧師が有名な演説を行います。「I HAVE A DREAM.」ですね。

 

そのキング師は68年3月にメンフィスで暗殺されます。折からのベトナム戦争に、黒人からの協力も必要とするアメリカも、懐柔策の一環として公民権運動を受け入れます。そんな社会の動きがあって、黒人対白人の壁をこじ開けてから20年、70年代に入ってやっと、アトランタ、タンパを北部の飛び地と考えれば、ボボは南部への関所を通り抜けたということがいえると思います。