ボボ・ブラジルの政治経済学・・・力道山の死とベアキャット・ライト | 続プロシタン通信

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20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

プロレス界において何を持って「世界王座」とするのか。明確な定義はありません。なぜなら、アマチュアスポーツのオリンピックや世界選手権のように明確な定義がないからです。まずは自称「世界王座」というものが存在し、それをマスコミが認めて何となく、といったところではないでしょうか。

 

そういう意味で「世界王座」といっても怪しさがつきまといます。それを認めた上で、黒人で初めて世界王座に就いたレスラーは、といいますと、ベアキャット・ライト(1931~1982)となります。

 

ボボ・ブラジルもロサンゼルスにあったWWA(Worldwide Wrestling Associates)世界王座に1966年9月に就いております。このWWAは、一応世界王座であったとするのが、当時のマスコミの共通認識だったと思います。

 

ライトはブラジルよりも前の63年8月にフレッド・ブラッシーを破ってこのWWA王座につきました。また、これを「世界」と認めていいのか、解釈が分かれるところだと思いますが、61年4月にキラー・コワルスキーを破ってボストン版の世界王座に就きました。これをもって黒人初の世界王座とする解釈も当然、成り立ちます。

 

ライトは2世レスラーでした。父親エドワード・ライト(1897年生まれ)は元ボクサーでしたが、レスラーとしてリングに上がったこともあります。また、父親もベアキャット・ライトを名乗ったこともあります。息子の方のライトは51年3月に出身地であるネブラスカ州オマハでプロボクサーとしてデビューしました。プロボクサーとしてのキャリアは3試合のみで、同じ年の12月、プロレスラーに転向しています。当時は、ベアキャット・ライト・ジュニアの名でリングに上がったこともありました。

 

ミネソタは黒人人口の割合が全米でもっとも低く、したがって黒人レスラーの登場機会が少ない州です。ところがライトは例外的にミネアポリスでの試合が多いのです。なぜなら、父親がボクサーとしてミネアポリスで有名でしたから。そういうわけで、息子の方も若い頃はベビーフェイストしてバーン・ガニアのパートナーをしばしば勤めました。

 

レスラーとして業界で認められるようになったのは、54年の事です。カナダ・トロント周辺で名を挙げ、8月24日にはオンタリオ州ハミルトンで、ルー・テーズの持つNWA王座に挑戦するまでになりました。もちろんライトが引き分けに持ち込めるわけはなく、テーズのいわゆる(実際は1000試合以上シングル無敗)936連勝記録に貢献する結果となりました。

 

57年6月、エドワード・カーペンティアがシカゴでテーズを破り、NWA王座を奪取します。ところが8月のNWA総会で「反則決着だった」として移動は無効になります。しかしながら、何人かのプロモーターが「いいから、いいから」とばかりにカーペンティアを世界王者として登場させ、敗れ、また他の都市でも同じようなことが行われたため、世界王座が増殖することになります。ライトがボストンで、ロサンゼルスWWAで就いた王座は共にカーペンティアを起源とするものです。

 

ここで、63年のWWA王者ライトについて記しておきます。王者となったのは8月23日で前王者はフレッド・ブラッシーでした。この頃のロサンゼルスのマッチメークは3ヶ月ごとに王者の首を挿げ替え、ファンの目先を変え、動員を維持しようというものでした。12月13日のロサンゼルスでの対ブラッシー戦は、フロントの目論見としてはブラッシーに王座を戻すということでした。オリンピックオーデトリアムには10400人の観客が集まり、札止めとなりました。動員に成功した理由は、黒人ファンを集めるため、この日だけ入場料を極端に下げたこともあります。これは「ライトで稼ぐのは今日で最後」とフロントが思っていた証拠と思います。

 

ところが、ライトは約束を破り、防衛してしまいます。こういう場合、試合はギクシャクします。

 

普段、WWA世界戦はオンエアされません。が、この試合は例外的に生放送され、そのギクシャクぶりにファンは引き、以後しばらくの間、客足が遠のきました。マッチメーカーのジュリアス・ストロンボーは米東部にいたジャイアント馬場や、自身による旗揚げを見据えてインディアナポリスから一時的に消えたディック・ザ・ブルーザーを呼んできて急場をしのぎます。

 

話をライトに戻しましょう。翌日、ライトは同じWWA圏、カリフォルニア州サンバーナーディーノでレッド・バスチェンと組んでフリッツ・フォン・ゲーリング&ボビー・デュラントンを破っています。ここで重要なのは破ったということではなく、試合に出たということです。つまり、ライトはフロントの目論見を裏切ったが、まだWWA圏で働こうと思っていたということですね。おそらくこの日、何らかの話し合いがあったと思われます。

 

しかし、翌日、ライトはベルトを持ったまま逃亡を企てます。その動きを察知したフロントはジン・ラーベル(プロモーター、アイリーン・イートンの息子で76年の猪木・アリ戦のレフェリー)を空港に送り、ベルトを奪還し、ライトの王座を剥奪します。公式発表では、16日、カリフォルニア州インディオ(州境の田舎町)でカーペンティアに敗れたことにしました。

 

ライトの王座転落に関しては「黒人差別に嫌気がさした」とは「黒人が王者であることが面白くない連中に脅された」とか当時は色々と脚色されました。が、あくまでもマッチメーク上のトラブルだったようです。

 

ところで、13日のライト対ブラッシー戦、予定されていた挑戦者は力道山だったという説があること、ご存知でしょうか。フロントが王者交代を目論んでいたのなら、次の王者は力道山だったことになります。しかし、力道山は渡米できませんでした。理由はお分かりと思います。その5日前トラブルによりヤクザ者に腹部を刺され、ベッド上にいたからですね。そして15日の夜、力道山は亡くなります。

 

黒人プロレス史で鈍く光るライト逃亡事件と、日本プロレス史に欠かせない力道山の死は、全く同じ日の出来事でした。