ボボ・ブラジルの政治経済学・・・ビル・ロビンソンが語ったルーファス・ジョーンズの思い出 | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

ジャイアント馬場はいいます。

 

「すべての黒人レスラーはボボ・ブラジルとルーファス・ジョーンズに感謝しなければならない」

 

ボボは「プロレス界のジャッキー・ロビンソン」と言われるように、労働市場としてのプロレス界を黒人に開放しました。ジャッキー・ロビンソンとは、黒人野球選手がそれまでニグロ・リーグでしか活躍できなかった壁をこじ開け、メジャー・リーグ入りしたパイオニアです。すなわち、ボボの出世によって、白人対黒人のカードが市民権を得て、黒人がプロレス界に入りやすくなったということです。そこにはボボの観客動員につながる身体能力もあったでしょう。

 

ルーファスは、引っ込み思案な黒人レスラーに代わって、プロモーターとの交渉を買って出たという美談があるようです。自身が動員力を持つようになると自惚れて、昔の苦労など知ったこっちゃない、そんな輩は人種を問わず存在します。が、ルーファスは違ったわけですね。

 

「ホボ」・ブラジル、バスター・ロイドを経てルーファスに改名後、ブレイクしたということは前回述べました。確かに、69年7月のアマリロ地区での改名後、カンザス地区、フロリダ地区、ジョージア地区、ミッドアトランティック地区、AWA、そして全日本プロレスと、WWFを除く全米で日の当たるテリトリーに招かれております。そしてどのエリアでも地区のタイトルを獲得するという活躍ぶりでした。

 

改名前と改名後の写真を並べてみます。

 

(改名前)

 

 

(改名後)

 

これは推測ですが、その人相の変化は、"Tomming"(黒人が白人社会で生きていくための世渡り、おべっか)の日々だったのではないかと思います。この言葉はジャズの巨匠、ルイ・アームストロング(1901 - 1971)の明るさに対して、軽蔑的に使われました。ただ、ルーファスが偉いのは、その"Tomming"を他のレスラーのためにも使ったということです。それがDNAレベルにまで染み付いてしまったということでしょうか、かつて「恐怖の男」で売った日本に、改名後、ふたたび来たところで、昔のような凄みは見せられない、人間であれば無理はないと思います。まあ、ファンというものは「人間以上」を求めてしまうのですが。

 

AWAでタッグパートナーだったビル・ロビンソンにルーファスの思い出を尋ねたことがあります。

 

「ああ、一緒になったよ。北海道でね。夏だったかなあ。魚の鍋料理を振舞われた時のことさ。皆が慣れない魚に四苦八苦する中で、ルーファスはあの大きな口いっぱいに魚を頬張ってさ。身の部分だけ食べて骨は、ピピッピっという感じで機関銃のように吐き出すのさ。あれには私だけではなく、皆大笑いだった」

 

AWAのリング内のことを聞いたつもりだったんですが、全日本プロレス時代のリング外の思い出が強烈だったようです。

 

ルーファスの出身地は米・サウスカロライナ州です。公民権運動が始まっても黒人差別が激しかった所ですね。ステーキなどめったに口に入らなかった幼少時、差別に耐え抜いた青年期、たかが魚の食べ方かもしれませんが、ルーファスのかつての日常が「機関銃の逸話」の中に隠れているような気がします。

 

「ブレイクしてつまらなくなった」。確かにそうなんですが、やはり「それを言っちゃあおしまい」なんでしょう。