ボボ・ブラジルの政治経済学・・・ルーファス・ジョーンズがまだバスター・ロイドだった頃 | 続プロシタン通信

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20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

ルーファス・ジョーンズ(1933~1993)は少なくとも3度目のリングネームです。

 

ルーファス・ジョーンズの前がバスター・ロイドで、この名前で初来日です。ロイドの前が不明なんですが、ホボ・ブラジルを使ったことは判明しています。「ボボ」ではありません。また、他の名でリングに上がったこともあったかもしれません。

 

本日は、バスター・ロイド時代のことを書きます。

 

(初来日時の宣材写真)

 

バスター・ロイドの名を初めて用いたのは1968年5月のモントリオール地区でした。ということは、ホボ・ブラジルだったのは、この直前だったと推測されます。なぜなら、ホボ・ブラジルなんていうアホなリングネームをつけるのは、当時はボストン地区(WWWFとは別のインディー団体)しか無く、地図を見ると分かりますがボストン地区とモントリオール地区は隣接しているのです。大体、売れていないレスラーの転戦は隣接地区が多いので、先ほどのように推測できます。

 

さて、モントリオール地区で改名デビューしたロイドは、その年の暮れ、日本プロレスに初来日します。そして帰国後の翌69年3月からダラス地区のリングに7月まで上がります。次の転戦先はアマリロ地区なんですが、そこからルーファス・ジョーンズに改名します。

 

日プロ時代のロイドは背筋も震えるくらいに怖いレスラーでした。また、日プロは大木金太郎の持つアジアヘビー級王座の挑戦者としてロイドをプッシュしました。そのマッチメークのプロットは「プロレス心」満載の見事なものだったと思います。

 

69年1月10日、テレビ初登場のロイドは前哨戦で大木金太郎にフォール勝ちします。そして放送席に。

 

「何でチャンピオンなんだ。弱いじゃないか」

 

ロイドの不気味さは、肌の色が真っ黒で、目だけが白く光り、首の後ろの肉が盛り上がりひだとなってうねっているところでした。本当に恐ろしかった、夜中にトイレに行かれないくらいでした。

 

(ロイドの耳の下に肉襞がかすかに確認できる)

 

17日の後楽園ホールからの中継では、ウイルバー・スナイダーと組んで、ジャイアント馬場&吉村道明をいたぶります。24日の後楽園ホールからの中継では、大木との再戦、頭突き合戦で両者リングアウトとなりました。大木が負けなくてよかったな、という感想を持った覚えがあります。31日も後楽園ホールからで、ロイド&ダニー・ホッジは馬場&大熊元司を破りました。コテンパンにやられた大熊は弱かったです(弱く見えたということですが)。

 

シリーズが始まってロイドはここまでシングルは大木との1分だけで無敗、タッグでもフォールされていませんでした。対猪木戦も反則勝ちです。馬場とのシングル戦はありませんでしたが、タッグでフォールとっています。

 

(初来日時)

 

そして2月8日、仙台・宮城県スポーツセンターで大木に挑戦です。

 

1本目、20分12秒、足4の字固めの奇襲で大木が取りました。ロイドにとってシリーズ初のギブアップです。2本目は7分31秒でロイドが取り、3本目2分51秒、大木は後頭部への頭突きでロイドからシリーズ初の3カウントを取り、アジア王座防衛となりました。

 

 

(下部中央の、試合後の乾杯写真に後注目下さい。大木がヘッドギアをしております。これは、前年68年12月1日、宮城県スポーツセンターでブルート・ジム・バーナードによる角材攻撃で負った耳(切断直前だった)の傷が完治していなかったための措置でした。次の宮城県スポーツセンターで大木にアジアヘビー級王座の防衛戦を行わせるあたり、日本プロレスのマッチメークはエグいですよね。)

 

2度目の来日は72年12月の全日本です。改名後、アメリカで活躍しているとのことですが、正直「こんなもんだっけ」という感想でした。決定的だったのは、目つきが優しくなっていて、首の後ろの肉襞がなくなっていたとこです。まあ、ルーファス・ジョーンズ時代については別の機会に譲ります。が、それほど初来日のロイドは素晴らしかったのです。

 

モントリオール地区やダラス地区でのロイドがどうだったのか。調べてみてのけぞりました。勝率がいいとか悪いとかという話ではありません。対戦相手です。

 

1968年5月6日、モントリオールデビューの日の相手はイワン・コロフでした。結果はわかっていません。2ヶ月後の7月5日、ケベックシティではオックス・ベーカーに敗れています。

 

こんな感覚は私かもしれないんですが、

 

イワン・コロフ対バスター・ロイド

 

オックス・ベーカー対バスター・ロイド

 

と、カードを書くだけで「見たい、見たい」とのけぞってしまうんです。どんな試合になるんだろう、と。ところがですよ、

 

イワン・コロフ対ルーファス・ジョーンズ

 

オックス・ベーカー対ルーファス・ジョーンズ

 

だと「あ、そう」なんです。単なるヒール対ベビーフェイスの勧善懲悪劇しか想像できないんです。

 

ロイドをご存じない方にはわかっていただけないと思いますが、これがロイドとジョーンズとの違いです。

 

一体、私はなぜロイドにそんなイメージを持つのでしょうか?海外でのロイドのカードを調べていくうちに、ある人物の姿が思い浮かびました。1981年に生じた「深川通り魔殺人事件」の犯人、GKです。ゴングの金澤さんではありません、念のため。「深川通り魔殺人事件」についてはググって下さい。GKが逮捕され、立てこもっていた家から警察官に支えられて出てきた時の姿は非常にインパクトがありました。口にはめさせられた猿轡、ブリーフだけの下半身もですが、29歳にしては禿上がりつつある額、そして目つきです。コロフ、ベーカーの額、ロイドの目つきがGKを思い出させましたんです。

 

すでに1970年代に高度成長を終えて「一等国」の仲間入りをしていたとの自覚があった我々日本人は、皆、小利口になっていました。しかし、その流れに置き去りにされたようなGKから私が見えたのは、小利口になることで失った、人間としての「濃さ」でした。そうです。ロイドは肌の色だけではなく、人間として濃かったのです。私がモントリオールのカードを見てのけぞったのも、ロイドだけでなくコロフやベーカーの濃さもあったのです。コロフ、ベーカーに関しては新日本への最後の来日はイメージしないで下さいね。

 

幼少時、私がロイドを怖がった理由がここで、わかりました。ロイドに、剥き出しの「生命」というものを感じたからです。ロイドの生命力、それは「鈍く漲る」という表現だ妥当だと思います。その迫力に、子供として本能で恐れたのでしょう。

 

(ご提供:黒川柚月さん)

 

写真は庭の梅の木に群がる蜜蜂です。蜜蜂が見せる「生命力」はそれはそれで素晴らしいのですが、怖くもなってきます。人種差別は大反対です。それを前提に、いい加減なことは言えないのですが、あえていいます。黒人を嫌う白人の存在は、歴史的・社会的ないろいろなことがあるのでしょうが、しかし、根本には、剥き出しの生命力への恐れのように思います。

 

 

(ルーファス・ジョーンズ時代。初来日時の宣材写真と比べ、首がある、すなわち肉ひだが消えているであろうことと、目つきの変化に注目)