100年前のAWA地区 | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

AWAとはバーン・ガニアが作った団体です。

 

ジャンボ鶴田やマサ斎藤が世界王者になったため、日本でもかなり知られていますね。ミネソタ州、ウイスコンシン州、イリノイ州といったアメリカの北部が地盤でした。 

 

設立は1960年ですので100年前には存在しません。

 

が、100年前のこのエリアの記録を見ると、なかなか興味深いものがあります。 

 

ジョージ・ハッケンシュミットを破った後のフランク・ゴッチが一息ついていて、ジョー・ステッカーが世界チャンピオンになる前の、踊り場のような時期です。 

 

ミネソタ州ダルースといえば、カナダ国境のそばですね。71年6月、ストロング小林がビル・ミラーを破って、IWA世界ヘビー級王座を奪取したとさ・れ・る・街です(中黒「・」が入る意味はお分かりでしょうか?)。 

 

1914年1月14日、そのダルースに、グスタフ・フリシテンスキーが登場し、ポール・マーティソンを破っています。フリシテンスキーはチェコの英雄で、現在のところ、世界最古の動画試合に出ているグレコローマンのレスラーです。ヨーロッパでの格は、スタニスラス・ズビスコに少し劣るくらいでした。アメリカに来ていたとは意外でした。

 

動画を貼っておきます。 

 

そしてその年の夏、7月28日に第一次世界大戦が勃発しました。 

 

年が明けて、1915年2月6日、ミネアポリス・ゲイタイシアターにジミー・エッソンが登場し、30分耐えられたら負けと言うハンディキャップ戦でヘンリー・オーデマンを取り逃がしています。我が国でハンディキャップ戦といえば1対2とか1対3とか人数に差をつけます。が、当時のアメリカでは、時間切れならば一方(弱いと思われている方)の勝ちとなるルールの試合が流行っていました。 

 

時間切れ引き分けで○○選手の善戦、で、いいじゃないかと思いますが、「賭け」を行っている人々のために、何らかの形で勝敗を決める必要性があったのではと思われます。 

 

エッソンは1908年1月27日にロンドンのアルハンブラ劇場で開幕した、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・スタイルのレスリング・オープントーナメントのヘビー両級にエントリーし、2月1日の決勝戦で前田光世(コンデ・コマ)を破り、優勝しました。 フリシテンスキーやエッソンがアメリカに登場したのは、第一次世界大戦前後最中、ヨーロッパの興行数が激減したことと関係があると思います。