ボボ・ブラジルの政治経済学・・・アメリカ史上3人目の黒人プロレスラー、レジナルド・シキ(初代) | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

ブラインド・レモンがプロレスのリングを去る頃に登場した黒人レスラー(私の資料ではアメリカ史上3人目)はレジナルド・シキ(初代)です。1898年に生まれたシキはアメリカのカンザスシティに生まれ、アメリカだけでなくヨーロッパ、アフリカのリングに上がりました。アメリカよりもヨーロッパでの方が実績が上がっていたようです。話はちょっと複雑になりますが、複雑になりざるをえないところに戦前のアメリカのプロレス業界の一端が見えてきます。

 

ルー・テーズは言いました。

 

「黒人レスラーはその肌の色が、業界への参入を遅らせてきた」

 

そんな理由で戦前のアメリカで黒人レスラーの試合は本当に少ないのです。一応あげておきますと、他にシィーリー・サマラというのがいました。

 

シキはそんなアメリカでも、スタニスラウス・ズビスコ、ジム・ロンドス、フランク・セクストン、ドン・イーグル、レイ・スティールといった現役の、元の世界王者と当たっていて、一目置かれた存在だったように思われます。

 

ヨーロッパでの実績で光るのは、1935年8月25日、ブルガリアのソフィア・ユナクスタジアムで地元の英雄ダン・コロフと闘った試合です。コロフは普段はアメリカで闘っていましたが、この日は故郷への凱旋興行でした。シキは試合には敗れましたが、2万の観衆を動員し「敵役」を立派に務めたことになります

 

この興行で注目すべきは、ヨーロッパ大陸の試合でありながら、どうもキャッチ・アズ・キャッチ・キャン・ルールで行われたようだ、ということです。第一次世界大戦まで、ヨーロッパの試合は、基本的にイギリスではイギリス伝来のキャッチ・アズ・キャッチ・キャン・ルールで、大陸では1860年、フランスでルールが確立したグレコ・ローマン・ルールで行われていました。ところが30年代になって、大陸にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンが攻め込んでいく、といった風です。コロフ対シキはその象徴的な試合と言えます。尚、グレコ・ローマン・ルールでのプロの試合が途切れるのは50年代の初頭で、最後まで行われていたのはドイツでした。第二次大戦で東欧諸国が軒並み社会主義化されたのが大きいと思います。

 

シキは1948年に短かかった生涯を閉じます。試合記録は亡くなる前年にも発見できます。

 

1947年2月24日【ダルース】○ジョージ・ゴーディエンコ対レジナルド・シキ●

 

ゴーディエンコはまだ新人でした。「赤狩り」によるブランクよりも前のことです。さて、どんな試合だったのでしょうねぇ?

 

尚、日本プロレスやUWFに来日したスウィート・ダディ・シキ、美しいドロップキックで有名なレスラーですが、彼がデビュー当初レジナルド・シキを名乗ったことから、レジナルドとスウィート・ダディの親子説がありますが、これは誤報のようです。どうも、レジナルドというのはスウィート・ダディの本名のようなのですが、いかにも「あやかり」のように見えます。ややこしいですね。