ボボ・ブラジルの政治経済学・・・ビートルズとアメリカ史上2人目の黒人プロレスラー | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

「マッチボックス」という唄はビートルズで知りました。リンゴ・スターがリードボーカルを撮った曲で、初期ロックンロールの立役者として知られるカール・パーキンスのカバーでした。

 

とはいっても純粋な意味でのオリジナルはパーキンスではありません。歌詞はかなり変わっておりますが、元歌があります。ブラインド・レモン・ジェファーソンの「マッチボックス・ブルース」です。本日はブラインド・レモン・ジェファーソンを取り上げましょう。

 

ブラインド・レモンは1893年に生まれました。伝説的なブルースシンガーで、いってみればロックンロールの始祖の一人です。

 

生まれは1893年、ニューオリンズでエバン・ストラングラー・ルイスとアーネスト・ローバーがキャッチ・アズ・キャッチ・キャン対グレコ・ローマンの闘いを行ったその同じ年ですね。

 

亡くなったのは1929年、36歳という早い死です。シカゴで凍え死にました。録音を始めたのは1925年ですので、レコード歌手としてのキャリアはたった4年だったことになります。

 

さて、ブラインド・レモンの出身地ですが、テキサス州のクッチマンと言う小さな町の、さらにそばということがわかっています。このクッチマンは、ヒューストンからダラスへと向かう道沿いにあります。

 

ヒューストンといえば、1965年、ここで武者修行していたアントニオ猪木さんが、アパートを構えていた街です。ダラスで試合がある場合、仲間のレスラーの自動車に同乗させてもらいます。チャージは1マイル3セント、推定ですが。その途上、ブラインド・レモンの出身地を通っていたことになります。もちろん、猪木さんはそんなこと知らなかったと思います。

 

ブラインド・レモンは生まれた時から盲目だったそうです。視力がなかった代わりにブラインド・レモンが授かったのは、音楽的な才能と巨大な体でした。写真をよくご覧ください。これ、ギターが小さいのでしょうか?

 

10代でギターをマスターし、ストリートミュージシャンとなりました。生活の糧は通行人の投げ銭です。

 

おそらく20代半ば頃のこと、すなわち1910年代の終わりころと思いますが、ブラインド・レモンは巨体を利してプロレスのリングにも上がり、糊口をしのいでいたと言います。この頃、アメリカの大都市に興行会社が設立され始めます。わかっている中でですが、南北戦争前後のブラック・サムに次いで、アメリカ史上2人目の黒人プロレスラーということになります。

 

つまり、ビートルズがカバーした曲の作曲者にアメリカ史上2人目の黒人プロレスラーがいたのです。

 

ところが記録を調べても、なかなかそれらしき人物は出てきません。おそらく、ATショー(飛び入り喧嘩マッチ興行)など記録に残らぬ大会に出ていたのでしょう。

 

興行ってものは、客が集まるのならなんでもやりますよね。江戸時代の我が国でも「盲人相撲」なんてのがありました。

 

「鬼さん、こちら」

 

てな感じでしょうか?

 

いやいや、もしかしたら常に組み合っていなければならない、とかブラインド・レモンの試合だけの特別ルールがあったのかもしれません。ATショーではお金を賭けますので、勝敗を決する基準、すなわちルールがなければなりませんので、単なる客寄せではなかったと思います。

 

さあ、どっちだったか。究明は今後の課題とさせていただきます。