ブラック・サムが引退した翌1893年3月2日、ニューオリンズでは世界キャッチアズキャッチキャン選手権者エヴァン・ストラングラー・ルイスとアメリカグレコローマン選手権者アーネスト・ローバーが闘いました。この試合はキャッチアズキャッチキャンとグレコローマンのミックストルールで行われました。具体的なルール内容はわかりませんが、1本目はキャッチアズキャッチキャンで、2本目はグレコローマンで、3本目はコイントスで決めるといった感じだったと思います。勝ったルイスはアメリカン・ミックスト王者を名乗ります。
これがアメリカンヘビー級王座のルーツであり、フランク・ゴッチへと繋がっていきます。1906年12月、ゴッチはここニューオリンズでフレッド・ビールに敗れ、アメリカンヘビー級王座を失ったことがありました。
私が述べたいのは、19世紀末から20世紀初頭、アメリカプロレス史に残るような試合がニューヨーク、シカゴだけでなくニューオリンズでも行われていたということなのです。それだけニューオリンズはアメリカでも重要な都市だったということになります。
ニューオリンズの位置付けを人口から見てみましょう。
1880年、ニューオーリンズ市部の人口は全米で10位、1890年は12位、1900年は12位、1910年は15位でした。じりじりと下がっているのは、20世紀に入ってアメリカ北部、中西部の都市が産業革命により、急速な人口増を見せていたからです。ちなみに2000年現在では31位です。
人が集まるところでビッグマッチが行われる、それは今も昔も同じことですね。しかし、ここでご注目いただきたいのは、エヴァン・ストラングラー・ルイス、アーネスト・ローバー、フランク・ゴッチ、フレッド・ビールが全て白人だったことです。ニューオリンズでのプロレスがは白人向けの娯楽でした、言い切って差し支えないでしょう。
ニューオーリンズは19世紀初頭までフランス領でした。また、港町ニューオリンズはアフリカからの奴隷が到着するところでもあったのです。文化の担い手は、フランスからの移民とアフリカからの黒人の混血であるクレオールでした。また、貿易港としてカリブ海の向こう側の西欧、ラテン、アフリカ系の文化の入り口でもあり、様々な文化が入り交じった場でした。そんな背景などがあって、19世紀から20世紀の頭頃にここニューオリンズでジャズが誕生したと言われております。
全く同じ時期のニューオーリンズで、クレオールが先導したのがジャズ、白人が仕切ったのがプロレスだった、私はそのように位置付けております。
メリーランド州とバージニア州の境に位置するワシントンDC、そことセントルイスを結ぶラインは南北戦争(1861~1865)の中立州が並びます。それはほぼ、アメリカの北部と南部を分ける境界線となっています。同時に現在の民主党・共和党の支持基盤ラインでもあります。また、1963年以降のNWAとAWA・WWWFテリトリー境界線にも当たります。ニューオリンズは南部、しかもコテコテの南部で「ディープ・サウス」なんて言い方もなされます。
日本で今まで語られて来たアメリカプロレス史は、ほとんどが北部のプロレス史です。力道山が取り入れ、馬場、猪木に継承したプロレスも北部のプロレスです。もちろん、南部からも選手がたくさん来ていますが、方法論的には北部なのです。ロード・ウォリアーズのアニマルが面白いことを言っていますね。
「WWFとWCWとの興行戦争は、結局は北部と南部との闘いであった」
つまりアニマルは、ニューヨークのWWFは北部の、カロライナのWCWは南部の文化を引きずっていたということが何かで見えたということですね。
昭和のアメリカで、南部のレスラーは北部に比べて身体能力など様々な面で劣っていたと思います。ややもすると試合の方もまったり感満載となります。末期の国際プロレスのまったり感も、当時提携していた南部・ルイジアナ地区のレスラーがかもし出していたものかもしれません。また、南部のプロモーターは北部に比べ資金面でも乏しいものがありました。それを方法論(ギミックなども含む)でカバーしていたのが南部のプロレスでした。
「大仁田がFMW(1989年旗揚)であんなスタイルを前面に押し出したのは、南部テネシー地区で武者修行したからですかねぇ」
いつだったか、大仁田厚と共にテネシー地区を回った渕正信選手に質問をぶつけたことがありました。渕さん、ニヤニヤ笑っているだけでしたが、それは図星だったからだと思っています。
「大仁田はFMWを5万円で始めた」。
どこか通じるものを感じます。