ボボ・ブラジルの政治経済学・・・最初の黒人レスラー | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

最初の黒人レスラーは誰なのか?

 

ブラック・サム(本名ヴァイロ・スモール)だというのが定説です。

 

1854年といえばちょうど日本にペリーが来ていて日米和親条約が結ばれた年、安政元年です。サムはその年にアメリカのサウスカロライナのビュフォードで生まれました。身分は奴隷でした。リンカーン大統領の奴隷解放宣言は南北戦争中の62年9月の事です。

 

70年、サムは格闘興行の世界に入ります。まずはボクシングのリングに上がりました。レスラーとしてのキャリアが始まったのは77年の事です。サムは史上初の黒人レスラーとなります。

 

サムのホームリングはバーモント州でした。当時のバーモント州ではカラー&エルボースタイルの地盤でもあります。このスタイルは柔道着のようなジャケットをつけて闘います。80年代、このスタイルは廃れ、主力選手は、グレコローマンやキャッチアズキャッチキャンとのミックストマッチ(1本目、2本目、3本目ごとにルールを変える)でしのぎます。つまり、グレコローマンやキャッチアズキャッチキャンと交流があったということで、カラー&エルボーもプロレス史に位置付けられます。ヨーロッパでの黒人レスラーの出現は20世紀の初頭に確認されております。

 

81年4月、サムはニューヨークでマイク・ホロガンとカラー&エルボーの試合を行い敗れました。しかし、ホロガンはヴァイロに「感じるもの」があったのでしょう。程なくヴァイロに対してトレーニングを施すようになります。そしてホロガンはサムを連れてニューイングランド州の色々な郡の博覧会でのATショー(賞金マッチ興行)をサーキットしました。また、バーモント州カラー&エルボー選手権を2度獲得しています。ニューヨークではキャプテン・ジェームズ・C・デイリー(カラー&エルボーのトップの一人)、ハリー・ウッドソン、ジョー・ライアン、ビリー・マッカラムといったところと頻繁に闘いました。ニューヨークの「バワリーのバスティーユ」と呼ばれる居酒屋がありました。この居酒屋のオーナーは元ボクサーのオウニー・ゴェヘイゲンといいました。乱暴なパトロンと、あやしげな雰囲気で悪名高かったこの居酒屋では、ボクシングとレスリングの試合も行われていました。勝敗の判定は、試合後に審判の頭に銃を向けることで覆ることもあったそうです。

 

この「バワリーのバスティーユ」でサムがマッカラムと試合した時のことです。判定は揉め、結局ノーコンテストに終わりました。マッカラムはその晩遅く、ヴァイロを殺そうとしたといいます。背筋を寒くさせるものがありますね。

 

アメリカでサムに続く黒人レスラーの出現は1920年代まで待たねばなりません。考えられる理由の一つとして、ジム・クロウ法があります。これは1876年から1964年(東京オリンピックの年)まで存在したアメリカ合衆国南部の州法で黒人の一般施設利用を制限した法律の総称です。サムの地盤は東部地区なので、ジム・クロウ法の影響を受けたかどうかはわからないのですが、時代の雰囲気、すなわち、奴隷解放の頃のリベラルな社会状況に対する反動は全米的にあったと思います。サムのラストマッチは1892年ですが、他のスタイルでの闘いやミックストマッチについてはわかっておりません。