ボボ・ブラジルの政治経済学・・・キャンディとドッグ | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

1979年の上半期まで、キャンディは「明」であり、ドッグは「暗」でした。しかし以後、キャンディは「暗」にドッグは「明」に転じていきます。 

 

 

 

78年の暮近くのことでした。 東京12チャンネル(現テレビ東京)の国際プロレス中継で、カナダ・カルガリー地区で修行中の原進(阿修羅・原)の様子が映ります。相手レスラーはこの時初めて見る、なんの変哲のない黒人でした。 

 

1978年10月28日【エドモントン】ファイティング原(阿修羅・原)対ビッグ・ダディ・リッター 

 

リッターは、翌79年4月から5月にかけ国際プロレスに来日し主にミドルカードで戦うも、話題はスーパースター・ビリー・グラハム、上田馬之助、マサ斎藤に持っていかれました。 

 

初戦:4月13日【茨城県・土浦スポーツセンター】○ビッグ・ダディ・リッター対金光植● 

 

最終戦:5月9日【静岡県・焼津スケートセンター】○マイティ井上対ビッグ・ダディ・リッター● 

 

リッターは帰国後、カルガリー地区に戻ります。そして3ヶ月後、ビッグ・ダディ・リッターとしての最後の試合を行いました。 

 

8月11日【エドモントン】○ラリー・レーン対ビッグ・ダディ・リッター● 

 

南下したリッターは、改名します。ここからビッグ・ダディ・リッター改めジャンク・ヤード・ドッグ(以降JYD)の出世物語が始まります。 

 

8月23日【ニューオリンズ】○JYD対マイク・ボイヤー(マイク・ボイエッティ)● 

 

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その頃、レイ・キャンディはルイジアナ地区やジョージア地区などの活躍ぶりで「ゴング」などでよく聞く名前になっていました。こんな記録もあります。 

 

1975年10月7日【ビッグスプリングTX】○レイ・キャンディ対フランク・グーディッシュ(ブルーザー・ブロディ)● 

 

1978年10月22日【バトンルージュLA】○レイ・キャンディ対スタン・ハンセン● 

 

この78年の7月のスーパードームのメインでキャンディがアーニー・ラッドとの金網戦でメインを取ったことはすでにお話しました。 そして79年10月5日開幕の全日本プロレス・ジャイアントシリーズで初めて日本にやってきます。巨体と動きの良さには目を見張りました。そして1週間後のことです。 

 

1979年10月12日【北海道・旭川市体育館】(インタータッグ)○アブドラ・ザ・ブッチャー&レイ・キャンディ対ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田●、移動 

 

王座の方は19日の郡山で取り返されます。が、ブッチャーは格好のパートナーを得たものだ、と思ったものです。 

 

キャンディは翌80年春のチャンピオン・カーニバルにも参加し、テリー・ファンク軍団と抗争したブッチャー軍団の副将を勤めました。 

 

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ところが、この80年、キャンディの古巣ルイジアナ地区ではJYDが快進撃を続け、8月2日のニューオリンズ・スーパードームでは全11試合のメインを取りました(マイケル・ヘイズに勝つ)。一方のキャンディは第5試合(キラー・カーンに勝つ)です。 

 

この地区のプロモーター、ビル・ワットは前任者レロイ・マクガークに比べて黒人を重用しています。しかし、ワットの黒人、黄色人への人種差別、また地位の低い白人レスラーに対してのパワーハラスメントは露骨です。黒人重視も、黒人が多いルイジアナ州という市場を見据えてのものでした。キャンディが日本を重視したのも、ワットと比べてストレスが少なかったからだと思います。 

 

8月のスーパードームの後、キャンディはまたも全日本のリングに上がります。第二次サマーアクションシリーズへの参戦で、1年の間に3シリーズ全日本に呼ばれたということになります。それだけ買われていたということですね。 

 

帰国後、キャンディはルイジアナ地区に戻ります。ここで転機が訪れます。当時、ルイジアナ地区は国プロとの提携を始めたばかりでした。キャンディはそのラインに乗って、翌81年2月に国プロにやってきます。前回の全日本から半年経っていませんでした。 

 

キャンディとしてはストレスが少ない日本を選んだだけのことでした。以後もしばしば国プロのリングに上がられる約束もあったと思います。 

 

古巣全日本ではその年の5月にブッチャーが新日本に引き抜かれます。これで全日本の黒人エースの椅子が空きますが、当時の業界慣例からキャンディが全日本に戻れるというものではありません。ところが国プロはこの年の8月に崩壊してしまいます。キャンディは日本での働き場所を失いました。そしてザ・スーパーフライとしてに覆面を被ったりしてしのぎながら、レロイ・ブラウンとのコンビで84年3月に新日本に来ます。が、全日本時代ほど重用されませんでした。

 

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JYDはその後もルイジアナ地区を中心に、時々ジョージア地区なども兼ねながら大きな存在となっていきます。 

 

キャンディが差をつけられた理由はどこにあったのでしょう。一つにはキャンディがルイジアナ地区でジョージア地区、全日本で闘い、ルイジアナ地区を留守にしたことだと思います。一方のJYDはルイジアナ地区でなくてはならない犬、ではなく人となってからジョージア地区など他も兼ねるようになりました。 

 

しかし、一番大きかったのは運、次がキャラクター作りだったでしょう。キャラクター作りに付随するものとして「ふるまい」があります。 

 

"Tomming"と言う言葉があります。

 

語源は"Uncle Tom"の"Tom"です。「黒人が白人社会で生きていくための世渡り、おべっか」といった意味です。つまり、白人に都合のいい黒人を演ずるということですね。代表的なのは、ジャズの巨匠、ルイ・アームストロング(1901 - 1971)でした。あの明るさに対して、軽蔑的に使われた言葉です。 

 

JYDにできてキャンディにできなかったのは、"Tomming"だったと思います。 

 

84年、WWFがそれまでのテリトリーだった東部地区から垣根を越えて全米で興行を打つようになります。これを可能にしたのは、航空交通網の発達とそれに伴う料金の低下、また、ケーブルテレビ網で東部地区意外にもWWFの試合を流せるようになったことです。JYDはワットのもとを離れ、WWFにジャンプします。そしてハルク・ホーガンを支えるベビーフェイスの番頭となります。 好況のルイジアナから好況のWWFへ、JYDは自分を上手く売りました。これは皮肉で言っているのではなく、 客観的なビジネス的成功を述べているつもりです。 

 

ワットは、ジム・クロケット・ジュニアと提携します。クロケットはWWFオーナーのビンス・マクマホン(ジュニア)と並ぶ大物プロモーター、NWAの重鎮でした。

 

86年春のスーパードームの主役はリック・フレアー対ダスティ・ローデスのNWA戦とクロケット子飼いのロード・ウォリアーズとなります。またその日、クロケットと提携していたジャイアント馬場も2代目タイガーマスク(三沢光晴)とのタッグで参戦しました。 

 

この日はタッグトーナメントが昼夜入替で行われました。動員は昼は3500人、夜は13000人でした。ちなみに、本稿の最初に挙げた76年7月の最初のスーパードームは17000人(メインはテリー・ファンク対ビル・ワットのNWA戦)、78年7月は23800人(メインはレイ・キャンディ対アーニー・ラッドの金網戦)、史上最高は今まで何度か述べた80年8月は28000人(メインはJYD対マイケル・ヘイズの金網ドッグカラー戦)です。明らかな人気低下ですね。 

 

87年にはいると、頼みのスーパードーム興行も3500人の動員が精一杯となり、その年の暮、ワットは興行権一切をクロケットに売り渡します。すでにクロケットもWWFと同様、テリトリー(84年までは南北カロライナ州、バージニア州)から出て全米をサーキットしていました。クロケットにとってニューオリンズはサーキットする一都市にすぎず、ここにおいて、語るべきニューオリンズプロレス史は終わります。 

 

 

さて「ボボ・ブラジルの政治経済学」、次回は19世紀に戻ります。黒人レスラーの登場をジャズとからめて述べていけたらと思います。