ボボ・ブラジルの政治経済学・・・ラッドを襲った「背中叩き事件」 | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

本日もまた訂正から始めなければなりません。 

 

実を言うと、アーニー・ラッドはトロントでアブドラ・ザ・ブッチャーに付き添った1980年6月29日、その前日に試合に出ておりました。 

 

(NWA世界タッグデトロイト版挑戦者決定トーナメント)○ザ・シーク&キラー・ティム・ブルックス対アブドラ・ザ・ブッチャー&アーニー・ラッド●、反則 

 

試合に出ておりますので、文中述べた「休業期間中」と言う表現、ちょっといただけません。しかし、5月中旬から全日本プロレスに登場した7月11日までの間で、試合に出たのは6月28日のデトロイトだけですので、実質的には「休業期間中」となります。トロントに顔を出したのも、サマーアクションシリーズへの前振りとして馬場さんに命じられたからだと思います。ただ、やはりまともな試合ができる状態ではなかったのでしょう。 

 

お詫びして訂正します。

 

さて、本題です。本日は、アーニー・ラッドをいろいろな方向から見て見たいと思います。 

 

∴ 

 

ラッドのデビュー戦は1963年1月4日、カリフォルニア州のサンディエゴで行われ、レオン・キリレンコを破りました。サンディエゴといえばロサンゼルスのテリトリーに含まれます。しかし、ラッドはデビューから3戦はサンディエゴに止まります。 

 

ラッドはAFLのサンディエゴ・チャージャーズの現役選手であり、当時はアメリカン・フットボールのオフの間にリングに上がる「兼業レスラー」でした。住居もサンディエゴにあったのでしょう。1月というのは、アメリカン・フットボールがオフになる時期なのですよね。デビューが1月のサンディエゴというのは、この頃のラッドの日常から考えてうなずけます。 

 

この数日前、62年12月29日にアメリカ武者修行中だったジャイアント馬場が東部からこの地区に入ってきました。馬場はこの時、同じ巨人レスラーラッドのコーチをしたと述べています。 

 

ラッドはアメリカン・フットボールの世界で大物だったようです。その世界に詳しいTさんによりますと、兼業レスラーとしての格はブロンコ・ナグルスキー、レオ・ノメリーニに次ぐ存在だったようです。日本でのおなじみのワフー・マクダニエルもラッドとは同格になるといいます。 

 

その知名度ゆえでしょう。デビュ−2ヶ月半後からヒューストン地区を兼ね、4月5日にはヒューストン・コロシアムでルー・テーズの持つNWA世界ヘビー級選手権に挑戦しました。この試合はダブルノックアウトに終わりました。 

 

現在ではすっかり風化してしまいましたが「背中叩き事件」というものがかつて語られました。

 

6月14日、ヒューストンでの再戦のことと思います。1本目はテーズがドロップキックで先取し、2本目はラッドの殺人タックルで開始後1分の電撃フォール相成ります。そして3本目、ラッドのベアハッグにテーズもがき苦しみ、絶体絶命のピンチ。ここで誰かがラッドの背中を叩きます。レフェリーによるストップと思ったラッドはテーズを解き放ち、勝利の雄叫びを、と思った瞬間、テーズのバックドロップが炸裂し、ラッドは敗れました。ラッドの背中を叩いたのはレフェリーではなくテーズだったというオチです。ラッドのフォール負けも、実力ではなくテーズの老獪さに敗れたということになりました。 

 

とまあ、馬場にしてもテーズにしても業界ぐるみでラッドを育てている姿、美しく感じてしまいます。 

 

63年といえば我が国では暮に力道山が亡くなっています。すでに全米トップの一人だった馬場は予定していた残りの武者修行期間を圧縮して64年4月に帰国します。これで一番得をしたのはラッドだったと私は見ています。 

 

1940年、イギリスからニューヨークに入ってきて旋風を巻き起こしたのがフレンチ・エンジェル(モーリス・ティレ)でした。ティレは身長は大したことがないのですが、末端肥大症により、体は大きく見えます。 

 

顎の長さに「ポパイ」をリングネームにしていたオラフ・オルソンはティレにあやかりスウェーディシュ・エンジェルと改名します。オルソンはティレとは異なり、巨人でした。 

 

 

戦後、イタリアからやってきたボクシングの元世界ヘビー級王者プリモ・カルネラは我が国では「動くアルプス」と言われましたが、アチラでは「優しい巨人」と呼ばれたことがあります。

 

カルネラがリングから去ろうかという時、アメリカに現れたのが馬場でした。力道山死去による馬場の帰国は「巨人スターの椅子」がラッドに禅譲されたことを意味します。あ、申し遅れましたが、馬場の身長は公称で209センチメートル、ラッドは207センチメートルです。 

 

ラッドはNWA、AWA、WWWFの世界王者になっていません。これは実力云々の話ではなく、団体に拘束されず、それぞれのビッグマッチに呼ばれる道を選んだということです。これも64年上四半期の馬場と通じるところがあります。 

 

そんなラッドですが、「巨人スターの椅子」を譲る日が来ます。それは71年に北米入りしたアンドレ・ザ・ジャイアントの台頭です。ラッドもこの流れには抗しがたく、ヒールサイドに回ることで延命を図ります。それまでラッドがヒールを務めたのは、絶対ベビーフェイスのブルーノ・サンマルチノと闘った時だけでした。 とまあ、ラッドはフレンチ&スウェーディシュ・エンジェル、カルネラ、馬場、ラッド、アンドレという巨人スターの系譜に位置した大スターでした。 

 

ラッドが70年の日本プロレスNWAタッグリーグ戦で今ひとつだったのも、ヒールとしての闘い方に慣れていなかった、という言い方もできるかもしれません。今では考えにくいのですが、当時、基本的に外人レスラーは日本ではヒールでした。この辺りの切り替えについては、同じアフリカ系の先輩、ボボ・ブラジルに一日の長があったと思います。ちなみにアメリカでアフリカ系トップがブラジルからラッドに変わったのも70年頃で、以後、ブラジルの日本での試合数が増えます。 

 

ラッドのニックネームは、その長い手足から「黒い毒グモ」でした。また日本限定で「黒い馬場」なんてのもありました。この「黒い馬場」という呼称、「巨人スターの椅子」をタームとして考えると頷けます。 

 

ところで、ラッドが「黒い馬場」ではなく、「白い馬場」だったら歴史はどう変わったでしょうか。アンドレのブレイクがあれほど急速でなかったのでは、と思います。やはりアフリカ系の血ゆえ、プロモーターとしてマッチメーク上の制約条件も多かったでしょうし、プロモーターとの交渉もよりタフなものになり、余分なストレスもあったでしょう。

 

アフリカ系のチャンピオンは数多いますが、アフリカ系のプロモーター、名のある方、私は知りません。その点、黄色人プロモーターとの仕事を選んだブラジルやブッチャーは賢明だったというるでしょう。