ボボ・ブラジルの政治経済学・・・アーニー・ラッドの衰え | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

まず、前回の訂正をさせていただきます。 

 

8月2日、アーニー・ラッドがニューオリンズのスーパードームに出ていなかったことについて「参戦は予告されていました」と書きました。再調査の結果、その事実は確認できませんでした。私の勘違いでした。実際に参戦予定だったのは、ニューオリンズではなく、翌8月3日のタンパスタジアムでした。お詫びして訂正させていただきます。 以下、本文です。

 

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アーニー・ラッドが1980年8月2日のニューオリンズ・スーパードームに出ていなかった理由は、その時、全日本プロレスのサマーアクションシリーズに参戦していたからです。逆に言えばニューオリンズのプロモーター、ビル・ワットにとってラッドはすでに「どうしても」というレスラーではなかったということです。ワットは商売上のメリットで黒人レスラーを重用していただけで、それ以上の意味があったわけではありません。 

 

この年のラッドはフロリダ地区をホームリングとして、ルイジアナ、カンザス、AWAのビッグマッチを選んで闘っていました。ところが、5月中旬以降、休業期間に入っております。おそらく怪我をしたのではないかと思います。

 

この頃のアメリカでの記録を見ると、7月18日のシカゴ、8月3日のタンパに出場予定だったものの、キャンセルしていることがわかります。これは、7月11日から8月7日にかけて全日本プロレス「サマー・アクション・シリーズ」に遠征するためでした。ならば、最初からシカゴやタンパのオファーを受けるなよ、ということになりそうです。 おそらくラッドは休業期間中にオファーを受け、イエスをしたものの、全日本プロレスからの4週間の仕事を優先したということなのだと思います。 

 

休業期間中、ラッドは一方で、6月29日カナダ・トロントに試合もないのに現れております。この日、ドリー・ファンク・ジュニアと対戦するために入場してきたアブドラ・ザ・ブッチャーに付き添ってきたのです。また、この日は全日本プロレスの総帥ジャイアント馬場も出場しておりました。鶴田と組んでブルーザー・ブロディ&スコット・アーウィンとのインターナショナルタッグ王座防衛戦を行うためです。この模様は日本テレビが「全日本プロレス中継」用に収録もしておりました。

 

これをどう解釈すべきでしょうか。おそらく以下のようなことと思います。 実は、トロントでのブロディのパートナーはラッドの予定で、馬場はラッドをトロントに呼んだものの、怪我の回復が思わしくない。ならば馬場としては次のシリーズの前ふりとして顔だけでも見せろ、ということになったんだ思います。 さらにいえば、馬場の構想としては、この年の世界最強タッグのブッチャーのパートナーに、ラッドを考えていたようです(当時の雑誌で確認できます)。しかし実際にはキラー・トーア・カマタになりました。

 

この来日は70年(日本プロレス)、74年(新日本プロレス)に続いて3度目でした。来日したラッドは、まだ完全に故障から回復しておらず、動きの悪さが目立ちました。年齢的な衰えもあったと思います。そして、ラッドは2度と日本に呼ばれることがありませんでした。 

 

日本では大活躍とはいえなかったラッドです。しかし、アメリカでのラッドは日本のリング上からは想像できないものがありました。今回はいきなりキャリア晩年のラッドを述べましたが、次回は、全盛期のラッドを追ってみたいと思います。そこでもやはりアメリカにおける黒人のあり方というものが見えてきます。