埴谷雄高がいいたかったことは、つまるところ、こういうことです。
私達は、自然と社会の中にいるがごとく、存在のなかにいる。
私達が存在のなかにいると自覚的に規定しようと試みたのは、20世紀になってからのことである。それまで、存在自体のなかにありながら、存在を客体とし、自身を主体とみなす二元的な思考を自然に用いていた。
社会に対して個人を最後のよりどころとしたように存在に対して意識を抵抗線として持ち出したが、ほとんどあらゆる地点で破られつつある事態にたちいっている。
存在の多様より、まず無限と永遠のなかにおける観察主体の多様ついて吟味してみること、この問題は、人間の独自性を脅かすかもしれない驚くべき重要な課題の一つである。
時間と空間が宇宙を入れる容器であるように、想像力は生の全体を入れる容器である。
想像力なしには、私達の一瞬の生も、永劫の死もなりたたない。
想像力を駆使し、存在と相対峙する個こそが真の革命である。
というものなのですが、存在は、予想以上に手ごわくて、上手く、罠にかからず、今も、苦吟の日々が続いているということです。