【第74回】
「ヒマラヤのふるさと」
ヒマラヤの山々に囲まれた、小さな国がありました。
その国は長い間外国の文化や人を受け入れず、国土のほとんどが山地だったため、産業も農業も発展しませんでした。
それを心配した遠くの島国が、一人の男性を送りました。
男性は以前からこの地域を研究していて、生活がとても貧しいことを知っていたので、なんとか豊かにできないかと考えていました。
そこへ頼まれたので、男性は喜んで引き受けました。
しかし、男性が着いたときには、すでに隣の国の人が来て指導を始めていたので、遠くの島国
から来た男性は邪魔者扱いされてしまいました。
けれども男性はその状況にめげることなく、わずかな土地をもらい、ヒマラヤの国の少年たちに手伝ってもらいながら研究をはじめました。
自分はよそ者なのだから、口で言うより成果を見せた方がよいと考えたからです。
まず、少年たちに畑の耕し方や種のまき方をしっかり教えました。
すると野菜は、今までその国では見たことがないほど立派に育ちました。
次の年はもっと広い土地をもらい、新しい農場をつくりました。
するとこの農場はうわさになり、近所の人たちから偉い人たちまでもが、見学に来るようになりました。
男性は喜んで、さらにいろいろな野菜の栽培に挑戦していきました。
その翌年、着々と成果は上げていたものの、彼は悩んでいました。
2年の約束で来たので、もう帰らなければならないためです。
ようやくここでの農業がわかり始めたところなのに、ここで帰ってしまっては目的が達成できません。
しかし、彼の努力は報われました。
ヒマラヤの国の王様が、彼にもっと手伝ってほしいと頼んでくれたのです。
もちろん男性は、喜んで引き受けました。
こうして彼はさらに広い農場をもらい、より一層研究に励んだのです。
7年が経った頃、男性はひとつ大きな挑戦をします。
主食である、米をつくるための、田植えの改革です。
以前から、気ままに苗を植えるやり方は良くないと感じていたので、自国のやり方を試して欲しいと、農家の人たちに協力を頼みました。
自由気ままとはいってもこの国では伝統的な方法だったので、なかなか受け入れてもらえません。
しかし一軒の農家が、「あなたの人柄と実績を信用する」と言って、自分の田んぼを使わせてくれたのです。
男性はその農家に感謝し、早速田植えを始めました。
自分を信じてくれたのだから絶対に失敗できないと、祈るような思いで稲を見守りました。
一定の間隔で美しく植えられた稲はすくすくと育ち、収穫量は4割も増えました。
すると他の農家たちもこの方法を取り入れ、数年のうちには約半数の農家がこの方法で田植えを行うようになりました。
その後男性は農業開発の責任者となり、多くの苦労を重ねながらさらに多くの功績を上げました。
こうして22年が経った頃、ヒマラヤの国はすっかり変わっていました。
水路が整備され、ある村では田んぼが50倍に増え、ヒマラヤにありながら日本を思わせる、美しい田園風景が生まれました。
生まれ変わった国を見て王様はとても喜び、長年の貢献を称えて、最も栄誉ある「ダショー(最高の人)」という称号を与えました。
男性の名前は、西岡京治(にしおかけいじ)といいました。。
日本ではあまり知られていませんが、「ダショー・ニシオカ」といえば、ヒマラヤの国、ブータンでは誰もが知っている英雄です。
ブータンで亡くなったダショー・ニシオカは、最高の敬意をもって、国をあげた盛大な葬儀で弔われ、第2のふるさととなったブータンに眠っています。
ブータンに行くと、「懐かしい」という日本の方がたくさんいます。
それもそのはず、今のブータンの姿は、他ならぬ日本人が作ったものなのです。
遠いヒマラヤでふるさとを感じるのは、きっと幼い頃に見た日本の棚田や田園風景が、ダショー・ニシオカが作り上げたブータンの風景と重なって見えるからなのでしょうね。
▼もうちょっと知りたい!という方はどうぞ↓
※ブータンに最初に援助に入っていたのはインドで、インドの役人はまともに取り合ってくれませんでした。でも、狭いながらも農地を与え、手伝いの少年を3人ほどつけてくれたため、西岡氏はそれを足がかりに研究を始めました。
当時12、3歳だった少年達は、西岡氏から直接の手ほどきを受け、ブータンの農業を支える人材に育ったそうです。
※妻が娘を連れて、教育のために日本に帰国してからも、西岡氏はブータンで研究と教育を続けました。
1992年、日本にいる妻に国際電話が入り、「ダショー・ニシオカが亡くなられました。」と悲痛な声で伝えました。
葬式はどうすればいいかと問われ、妻の里子さんは動転しつつも、ブータンで行うことを願ったそうです。それがブータンに全てを捧げた夫の望みだと思ったのでしょう。
西岡氏は、1958年に派遣されて何度か日本と行き来をしつつも、1992年に亡くなるまでブータンで暮らし、農業の開発に貢献しました。
葬儀は国葬として盛大に行われ、5千人に及ぶ人々が弔問に集まったそうです。
▼オマケの話
1976年から80年までの4年間、西岡氏は、ブータンの中でも最も貧しいシェムガン県という地域の開発を国王から直々に依頼されます。
焼畑を行って移動を繰り返していた地元の人々を説得するのは困難を極め、村人との話し合いは800回に及んだそうです。
地道な説得を続けて、出来ることから忍耐強く実行した結果、徐々に賛同を得られるようになり、農地は50倍に増えて定住地が出来、村には学校が出来て医者も来るようになったそうです。
満足な成果をあげて西岡氏が去る時、村人は口々に「ニシオカさんが初めに言った通りになった。お礼を言います。」と言って、涙を浮かべて見送ったといいます。
▼これであなたも物知り博士?
「西岡京治氏が、ブータンで最初に育てた野菜は何だったでしょうか?」
A.大根
B.人参
C.白菜
答え:大根
最初に育てたのは日本から種を持ち込んだ大根で、西岡氏の期待通り、昼と夜の寒暖の差が激しいため良く育ったといいます。
見たこともないほど大きく立派な大根が、ブータンの人々が西岡氏を信じ、協力するきっかけとなりました。
▼ものがたりに学ぶ、今週の教訓
「言って聞かせてやってみせ、成果を見せねば人は動かじ」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
★次回 旅のものがたり
「こころの地図」(仮)
それでは、次回の「旅のものがたり」をお楽しみに!
「旅のものがたり」
発行者:株式会社いい旅
執筆:黒崎 康弘
★毎週金曜日発行
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