山上憶良の短歌🎀しろがねもこがねもたまも  なにせんに  優れる宝  子にしかめやも
この句を両親はよく言っていました。

両親は私たちこどもをとても大切に育てました。父は子供が第一  次が仕事   どんな仕事をしてでも子供たちを守るとの姿勢で私たちを育てました。私たちは何の心配もなく幸せでした。

父は  自分が一番ではなく  子供たちが一番でした。なんでそうなのか母に尋ねました。   父は  原子爆弾で姉を27で  亡くし、初めてのかわいい甥を3歳で亡くし、義兄を30歳で亡くした。大好きな自分の母を  姉夫婦の家族全員を失った悲しみにより60歳前後で亡くした。

そして、母の話では   母が  妊娠8ヶ月の時、無理をして   早産をしたそうです。この時にも父は  妻と小さな小さな命のはかなさを知りました。幸い母は助かりましたが   二人の願いも虚しく、小さな小さな娘は亡くなりました。3時間は  生きていたそうです。

そのことも  父の家族に対する優しさに深く関係あったように思います。その後私たちが生まれました。誰にでも優しい父でした。家族を守り  家族と共に楽しむ姿勢を貫きました。夫婦二人協力して  残された祖父もとても大切にしていました。

人間は大きな悲しみがないと家族の大切さに気付かないのかもしれない。私は  父ほど家族を大切にすることができなかった。仕事の方がおもしろかった。本当は  家族が一番大切なのに。

人間は  人の苦労に気づくのは難しい。身近な家族にさえも。自分を最優先にしてしまう。  そして父は  何も語らなかった。母の話を聴き、もっと父を大切にすれば良かったと深く反省しています。

3・11でもあちこちに父のようにとんでもない犠牲を強いられた人が悲しみと共にたくさんいらっしゃる。父も一時自殺しようと思ったこともあったらしいと母は言っています

。3・11で家族を亡くされた方も強く生きてほしい。3万人近くの人が津波などで一瞬で亡くなった。広島、長崎では50万人近く、神戸は6800人近く。神戸にいる私は震災の映像を10年近く見ることができなかった。

父は  長崎に原爆が落ちた時、すぐに助けに行った。はえもウジさえもいない死の世界だったそうです。被爆の知識がなかったので、姉の家のお米を食べ被爆したのでは。私は40過ぎるまでそのことを言うのが怖かった。

福島原発の近くの人たちも私と同様  放射線の怖さに苦しんでおられると思う。長いのです。父は 知識がなかったので、ずっと被爆したと思われるお米を食べたことにも苦しんでいました。そして、 私たち子供にも影響するのではないかと常に心配していました。

原発再開よりもよりも被災者救済を。と強く願います。

命のはかなさを大きな悲しみのなかで知り、憶良氏の句を胸に  夫婦二人で協力しながら私たちを育てた父。私たち子供は   父のたくましい背中をみながら楽しい日々を過ごした。父の深い悲しみに気付くことなく。

実家にはいまでも姉夫婦の写真を飾っています。ずっと私たち家族を見守ってくれていました。家族は  あの世からも見守ってくれている。子供の時  私は   守られていると時々感じました。

次の世代に家族の大切さ、父の悲しみと優しさを伝えていかなければと思います。60過ぎて気付いた私です。人間が醜いので    人は  優しさを求めて生きているのかもしれない。そして  優しさは厳しい厳しい試練のなかで培われるのかもしれない。

父は本当に優しく強かった。その父を支えた母も偉大。大切にしなければ。そして、これからも小さな純粋な子供たちを大切にしたい。父も子供が大好きでした。

素晴らしかった 福島を   はからずも離れ、無念の思いで自主避難されている人の支援を打ち切らないでほしい。

放射能
は  怖いのです。 小さな家族一つ一つを救ってほしい。 一人になってしまった人から。一人でも立派に家族。あの世から見守ってくださっている人が必ずいます。

3・11で  被害に遭われた方   強く生きてほしいと心から  願っています。