これにはいろいろ考えられますが、日本人社会は環境的に、他の国の人たちよりも外語学習に不利な要素がいくつかあります。
代表的なものを挙げてみましょう。
①発音が上手だと目立っていじめられる。
日本には「出る杭は打たれる」という諺があります。
英語の発音が上手でも、そのまま読むと「自分の能力の高さを誇示している」とイヤな目で見られて、嫌われてしまうのです。
私の知るある帰国子女は、わざとカタカナ英語で朗読してました。
台湾では(多分中国とかアメリカも)上手な人はそのまま読みます。すると
「ねえ、あなたって上手なのね。」
「ありがとう。ちょっと自信あるんだ。」
「いいなあ~、今度教えてね。」
こんな感じで終わりです。
特別に謙遜も謙譲もしないのが普通。自然で良いのです。
ところが日本は、あえて「みんなと同じ」にしない人は嫌われる社会構造です。
だから「日本人の『できない』は信用できない」と言われます。
「謙譲の美徳」は悪くはないですが、語学習得には不利にしか働きません。
わざと下手にするとか、外国の常識では意味不明です。
②まず相手の話を聞け、と教えられる。
相手の話を聞いて、よく理解し、それに対して当たり障りのない模範解答をする...という日本人の社会教育は、消極的かつ非社交的性格を作り出します。
「正論で道理は通ってるけど、それ絶対本心じゃないでしょ」と思われて気味悪がられるだけ。
こんなキャラで通用するのは日本だけで、外国では通用しません。
①と②を総合すると、
「自分からは何も言わず、聞いてうなずいたり微笑んだりするだけ。話しても発音が悪く、自分の考えもハッキリあらわさない。正直、何を考えているのかわからない...」
逆に、日本に来た外国人がこんな性格なら、あなたは話し相手になってあげたいでしょうか?
嫌悪感こそ抱かないけど、本音から友人になりたいとも思えないですよね。
こうした日本の風習は、外国人目線から見れば「相手のことを思いやっている」というよりも「保身のために仮面をかぶっている」と映ります。
こうした日本人の民族性は、しかし赤ちゃんの頃には誰も持っていなかったもの。
社会教育を受けて(洗脳されて)こうなってしまっているのです。
赤ちゃんの頃には「最初に大人の言うことをよく聞いて理解してから、ボクチンの反応を決めるでし。」なんてあざといことは考えません。
・腹が減った!ミルク飲ませろ!
・オムツが濡れた。替えろ!
・疲れた、眠くなった、静かにしろ!
ということを精一杯ギャーギャー喚いて通そうとしますが、こちらの方が動物としては自然なわけです。
台湾人や中国人やアメリカ人など、おそらく日本人以外の社会の人たちは基本ラインがここで、みながしたいように行動し、問題が起こればそこで妥協点を見つけるために会話をします。
日本人はその論争を避けるために「最初から問題が起こらないように」行動することをしつけられているため、こうした社会性ができるのです。
起点は優れていますが、理想論です。
本音では誰もが自己欲求優先なので、表面上の理想を演じすぎるとストレスがたまります。人に優しく、自分に厳しいことを求める結果です。
それが爆発すると大事になるため、実は度を越さない程度にお互い自分に優しい方がストレスがたまらず心地よいのです。
「中国人は謝らない」と言いますが、アメリカ人も謝りません。
あえて白黒つけずに妥協点を探したほうが、平和に解決するのです。
(アメリカの訴訟好きはまた別起点)
話が脱線してきたので元に戻りますが、最後に一言。
「中国では、相手が謝るまで追い詰めないのが礼儀」です。
論破の一歩手前で兵を引くことで相手のメンツを保ち、一方では貸しとして後々の交渉で自分有利に持ち込むためでもあります。
(政治的な話ではありません。民間の風俗習慣です。)
「すぐに謝る日本人は民度が高く、謝らない中国人は民度が低い」などと、短絡的に決めつけられるものではないのです。
私は「本心では悪いと思ってないのに形式的に謝ってて不快」と、日本の謝罪会見を見るたびに感じます。
さて、結論です。
語学を学ぶ際には、これらの不利な習慣は捨て去りましょう。
「まずあなたがどう思っているのか、それをハッキリ伝えること」
「聞かれてなくても自己主張するくらい積極的に」
「上手なあたしの発音を聞いて!どう?すごいでしょ?」
くらいの気持ちで学習しましょう。
日本では嫌われるくらいが、非日本社会では普通です。
もちろん自己責任ですが(笑)、結果はやってみればわかります。
「外語を話す時には、外語キャラの自分が現れる」のは自然なこと。
(今日は、くだらない話をしました。読んだらごみ箱に捨ててください。)
*甲冑魚から逃げるウミサソリ。写真と文は無関係です。