最初に、表題の答えをどうぞ。会話練習が無駄なら、何をするのでしょう?

 

それは「供述練習」です。

 

前回の例文を、供述で示してみましょう。

 

「昨日は日曜日だったけど、私はやることがなく暇でした。天気が良かったので、一人で公園に散歩に行きました。そこでは、学校の友達三人が鬼ごっこをしていました。人が多い方が面白いと言って、私も仲間に入りました。運動するのは久しぶりで、とても楽しかったです。」

 

そんなに難しく長くもないですが、前回の会話文↓と比べて、どうでしょう?

 

A:昨日、あなたはどこへ行きましたか?

B:公園。

A:1人で行きましたか?

B:はい。

A:公園で何をしましたか?

B:鬼ごっこ。

A:1人で鬼ごっこをしたのですか?

B:いいえ。

A:公園に、友達がいたのですか?

B:そうです。

A:楽しかったですか?

B:はい。

 

会話文って、すっごく貧相に感じませんか?

それに比較すると、供述文は会話文の内容すべてを包括しつつ、それ以上の情報が詰まっていて濃厚に感じませんか?

会話文とは、AであれBであれ、供述分の一部を切り取っただけに過ぎないことがわかるはずです。

 

つまり「会話練習」はとても効率が悪い練習法ということなのです。

・「会話に精通するためには、まず聴解力を。」

・「会話が目的なのだから、会話形式が最適な練習法。」

などの「常識」で考えてしまったら、練習効率は全く上がりません。

こんなザコキャラのような練習は、時間と労力の無駄です。

練習は、ラスボス級だけで、充分。

 

ラスボス級の、供述練習だけをたくさんやればいいのです。すると、聴解力も会話力も勝手に上がります。

これだけの内容が言える人が、誰かが同じ内容をしゃべってもわからない、なんてありえないですよね?自分が話せる内容は聞けるのです。

 

会話文は丸暗記しても、相手がちょっと違う反応をしてきたらもう変化できません。

相手のすべての質問方式に対する会話の答えを丸暗記することなど、不合理です。

これは、英語をはじめ外語難民が突破できない、非常に大きな壁。

力の付かないザコキャラを一人ひとり倒していくような非効率なやり方では、体力も精神力もいずれ底をつきます。

 

しかし供述ができれば、相手がどんな反応をしても自由自在に変化できます。

会話よりもずっと難しいことができるのだから、そんなの楽勝です。

上の供述文と下の会話文を見比べれば、一目瞭然。

ラスボスが倒せるなら、ザコキャラなんて一発。

 

いわば、供述は会話の原液。

供述練習は会話に含まれるすべての要素を包括していて、なおかつ一人だけで練習できる優れモノです。

 

「進化」したければ、あなたの「常識」をよりよいものに昇華させていきましょう。

 

*無駄な練習はやめ、必要なことはたっぷり。

 

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