城址図では二の丸の先に下る道があって、城主館や御馬井戸などに行けるってなってたんですけど、道が見つけられませんでしたε-(´∀`; )
傷ごころでトボトボ下山して居ると妙な看板が…。
本当に今回の城攻めは、思い通りに行きませんでした。
今回の栃尾攻めで幾つか謎が残りました。
栃尾城の城域が、予想以上に広かった事で、栃尾城の戦いがしっくりこなくなりました。
・まず若い景虎を舐めて栃尾城に攻めて来た反乱軍の勢力がどの程度か解りませんが、上越地域は辛うじて晴景が押さえて居るし、下越地域の独立心旺盛な領主達が反乱軍の下に与するとは考えにくい、中越の領主をまとめ上げても1万以上の兵力を動員するのは難しいと思うんですよね、1万に満たない兵力であれだけ広い城域を持つ栃尾城を攻めたのか?
それとも力攻めではなく兵糧攻めを狙ったのか?
当時は信長・秀吉の活躍した戦国時代末期とは違い兵糧は自前が基本ですから、水の手を断てない構造である以上難しいと思うんですよね。
・景虎は籠城戦に特化して居る栃尾城に籠って居るのに、何故わざわざ少ない兵力を割いて敵軍を奇襲し野戦で敵軍を粉砕したのか?
これについては、栃尾城主時代の景虎に既に晴景に含むところがあり、籠城戦では上がらない武名を欲したから野戦での劇的な勝利が必要だったのかもしれませんね。
この謎については、秀次よりずっと上杉に詳しい某武将隊の御屋形様に聞いてみるつもりです。
新たな見解が解ったら追記するかもしれませんね。
【追記】4月23日
御屋形様に栃尾城の戦いについて聞いて来ました。
一説には
栃尾城を守っていた景虎軍の兵力は500程
反乱軍は3000程
だったと言う説があるそうです。
秀次が見て来た、栃尾城はいくら防衛戦に向いた城とはいえ500では守りきるには兵が足りないと思います。
確かに500対3000ならば籠城作を放棄して野戦に挑むのも理解できます。
でも、兄の晴景は景虎に500しか預けずにどうやって戦えって言うんでしょうね?
栃尾城を見捨てていないという姿勢を見せて栃尾勢の繋ぎ止めを狙ったのかな?