
大学を卒業して1990年にリクルートフロムエーに新卒で入社した。
時代はバブル全盛期でフロム・エーは週二回刊になり、CMはルーカスフィルムで撮った。
フロムエーポルシェはルマンを走り、アクトアライブではレニ・クラを初めて日本に呼んだ。
入社して1年後の春、いきなり新規事業の海外旅行事業部に異動して
学生の卒業旅行を企画販売した。この時が最初の社内転職状態だった。(1)
同時に湾岸戦争があり、海外旅行に規制が入ると、江副さんの判断で4年半で撤退
この判断が良かったのか?98年には、四季旅やジェットツアーなどが倒産した。
再び広告営業に戻ったのが95年10月、再度転職した気分だった。(2)
この時には、旅行会社からいくつかの引き合いもあったが、この経験をさせてもらった
リクルートという会社に恩返しがしたいと、残ることを決めた。
広告に戻った2年後に高島屋タイムズスクエアがオープンするタイミングでMVPを取った。
偶然にも母校の新宿高校がすぐそばで、なんだか嬉しかった。
その後、モチベーションは、上がったり下がったりして
MVPを取った後は燃え尽き症候群のような感じで、
パソコンでゲームをやっている上司を見て、どうしようもねぇなぁ~と思い
2000年には会社を辞めようと思って、1999年から転職活動をしていた。
もともと10年で会社を辞めて独立しようかなとも思っていたので、
人事にもそのような話をそれとなくすると、いきなりリクルートの代理店部に異動になった。(3)
ここも大きな転職気分だったかな? まわりの優秀な方たちに揉まれながら、
マーケティングをじっくり学んだり、研修という新たな「商品」も体験できた。
すると、2000年に三宅島大噴火があり、島に帰ることができず、
このタイミングで代理店に出向となった。
上司からは「島に帰れないから、もう少しリクルートで頑張れ!」と熱いエールをもらった。
出向先の太陽エージェンシーさまでは、様々なビジネスが体験できたし、
会社全体を見渡せて、社長ともじっくり会話できて、少しだけ経営にも参加させてもらった。
特に人材採用と育成では30名くらいだった組織は100名以上になり、売り上げも3倍になった。
ここで合計4回MVPを取らせてもらい、リクルートの年間MVP候補にもなった。
その後「うちに来ないか?」と社長から金銭的にも魅力的なオファーを断って、
2004年には代理店部に戻り、2005年には三宅島全島避難解除と同時にリクルートを退職した。(4)
本当は島に戻って何かやろうと思ったけど、島の状態はなかなかビジネスには厳しく
親父からも仕事はないと言われ、三宅島の植物で染めたTシャツや手ぬぐいを作ったり
なんとかやりたいことを形にしようと思ったけれども、ヒットは出せずじまい。
2006年にはアキレス腱断裂があり、半年間はバレリーナギブスになってしまった。
この時期から、少しだけお世話になった代理店に出入りさせてもらい、
研修の仕事をさせてもらった。教えた営業マンやグループが営業で優秀賞をとるなど
そこそこ結果がだせて、2008年にリーマンショックがあるまで、数社の研修をやった。
リーマンショック後はすっかり仕事がなくなり、親父に相談して三宅島に単身で戻り、
沖倉商店の仕事をすることになった。
2008年の夏から三宅島エコライドという自転車のエコなイベントを行い、
その中でやっていた釜の尻のボルダリングが後に大きな動きになるが、
この時には予想も出来ず、3年間、行政などには疎まれながら、民間でイベントを行い
2010年を最後に、2011年の3.11の震災後はイベントをやめた。
2010年4月に有限会社沖倉商店の代表取締役に就任、
2012年5月11日にカフェ691としてオープン(5)、2016年には村会議員となる。(6)
人生の節目や辞め時など、決して思い通りに来た人生ではないけど、
結果を残したいと思って、必死にしがみついて、人生を送っている自負はある。
もう一度生まれ変わったらとか、もう一度やり直すとか、
そんな事を簡単には考えられないくらい苦労してきたし、いまも続いている。
「運がよかったね」と周りから言われたり、
「のんびり島暮らし」「写真撮ってクライミングして楽しそう」などと、
楽観的に見られているなら、まだまだ自分には伸びしろがあると思っている。
同じことをやっているようで、何度も人生をリセットしてきた。
新しいことに踏み出すことは、マイナスではない。
新しいことに踏み出さない人は、本のページをめくることなく、
同じページばっかりを何度も読み返してるような感じだと思う。
何度も何度も踏み出してきたから、そのタイミングやその感覚はわかっていると思う。
もう50年以上も生きてきたのだから。