人から愛されるためには人を愛さなければならない。
高校の時に担任だった、蒼い目をした教師は私にそう言った。
愛が足りないと思うのなら、貴女が人を愛しなさいと。
だから私は人に優しくし、人を恨まず、どんな人でも愛するよう心がけた。
でもそれは嘘だ。
どんなに愛しても私は愛を手に入れる事は出来ない。
私に対して愛をする人など、何処にもいない。
愛など、この世に在りはしないのだ。
身支度を済ませ部屋を出た。
と同時に、主人の部屋から見慣れた老婆が現れ、私を一瞥してペコリと頭を下げた。
「奥様、お出かけですか?」
「えぇ、ちょっとね」
「お帰りは遅くなりますか?」
「そんな事聞いてどうするの?そんな事知ったってしょうがないじゃない」
主人は私に無関心でいる。
それはとうの昔からの事で、今に始まった事じゃない。
だから私が何処へ誰と出かけようが、まったく構わないはずだ。
「お夕飯の支度を…」
「…あぁ、そういう事。私の事は気にしなくていいわ。今晩は好きにするから。貴女も好きになさい」
バックから札を一枚取り出し、老婆の手に握らせる。
老婆はたじろぐ事なく札を握り締め、ニンマリと微笑んだ。
「旦那様もお出かけです。お墓参りに行かれると…。奥様もどうぞ羽を伸ばしてごゆっくり…」
いつも羽を伸ばしている私への嫌味だろうか。
それよりも『墓参り』という言葉が私の癇に酷く障る。
あの人が墓参りに行くとしたら、それは両親や親族の墓ではない。
あの人が唯一深く愛した女の墓だ。
名前は…サトミとかいっただろうか。
どんな字を書くかは知らない。
考えただけでも虫唾が走るから、あえて記憶しないようにしている。
私はサトミという女を失い、酷く傷ついていたあの人に強く惹かれた。
あの人の傷を癒してあげたいと思った。
だからあの人と供に生きる事を選んだ。
なのに…
あの人は私の事などひとつも見ていない。
失ってしまった、愛おしい女だけを見続け、今もなお愛し続けている。
私達はある日口論となり、私はけして言ってはいけない言葉をあの人にぶつけてしまった。
『知らない男の子供を孕んで、挙句に勝手に死んだ女にまだ未練があるの!』
だからあの人も私に向けてはいけない言葉を投げつけた。
『お前に何がわかる!娼婦上がりの安い女のくせに…お前に…お前に里美の何がわかる!』
私の体を強い衝撃が駆け巡った。
「奥様!奥様!」
気がつくと老婆が私を強く揺さぶっていた。
(ん…鉄の味がする)
「奥様、唇が!唇から血が!」
「血?」
どうやら唇を強く噛んでいたようだ。
指で軽く拭うと、口紅とは違う赤い色が指を彩った。
「ふっ、このくらい大した事ないわ。ふふっ…そんなに狼狽しなくても大丈夫よ」
(そうよ、あの日に私が傷をつけて、私が傷つけられた事に比べたら)
バッグから手鏡を取り出し、手早く口紅を塗り直す。
「奥様の形の良い唇に傷が…」
「良いのは唇だけじゃないでしょ?」
あの人に愛されるために努力してきた。
あの人に相応しい女になるために尽してきた。
でも鏡に映っているのは『芹沢梅子』という名前のだけの安い女だ。
(安い女だと言うのなら、安いだけの生き方をしようじゃないの)
「ねぇ…もし新見さんから連絡があったら、私が是非お願いしたい事があるって伝えて頂戴。お金の心配ならしないでねって」
「へぇ」
「それから…私が新見さんと連絡を取っている事は、主人には一切秘密よ。全部あの人のためなんだから…バレると面白くないでしょ?」
そうよ。
全部あの人のためなの。
今私が生きているのは、あの人のためだけなの。
離れられない。
離れたくない。
愛しているの。
なのに、それと同時に憎しみさえ感じている。
(やっぱり愛なんてこの世に在りはしないのよ)
それとも遠い何時か…私の感情の全ては、本物の愛に変わるのだろうか。