時おりしも新紙幣が発行されたが、私世代にとって高額紙幣と言えば聖徳太子となったのはいうまでもなく「聖人」イメージがあるからだ。そればかりでなく、非存在説(太子虚構説)、これを敷衍した蘇我入鹿説(関裕二)・長屋王説(木村勲)、「厩戸王」であることから同じく厩(うまや)生まれとされるイエス・キリストとの関連、ユダヤ教との関連等様々な本、論説がある。そんなもの全てを体系的に記述したのが「隠された聖徳太子ー近現代日本の偽史とオカルト文化」(ちくま新書)で著者がオリオン・クラウタウというブラジル生まれと思しき人物なのでびっくりする。よくこれだけ渉猟したなあ!と。現在東北大学で日本宗教・思想史の准教授というから学者の凄みを感じる。文体もおかしなところは全くない。

いわゆる「トンデモ本」でもその起源はアカデミズム史学にある場合も結構多いというから複雑である。一方、(我が愛読する)梅原日本学の中心をなす「隠された十字架」は誤りというから驚くこと大である。「哲学者」梅原猛は確かに歴史の専門家ではないものの、法隆寺は聖徳太子の怨霊鎮魂のための寺という驚天動地の説は毎日出版文化賞を受賞し国際日本文化研究センター(初代)所長となる基礎を築いたと理解していただけにだ。この説の信奉者は極めて多く、代表的なところで、作家の井沢元彦、漫画家の山岸涼子はこの怨霊説を基にした作品(井沢は「逆説の日本史」など、山岸は「日出処の天子」)を書いている。ところが、坂本太郎を筆頭として専門家からは厳しい批判、反論があるということだ。この怨霊史観は聖徳太子に止まらず「水底の歌」では柿本人麻呂もそうであったとする(井沢元彦の江戸川乱歩賞受賞作「猿丸幻視行」はまさにこれをミステリー仕立てにしたものとさえ言える)。

売れればいいという執筆動機はトンデモ本の作者なら当然あり得るが、アカデミズムの人間にはマイナスに働くことの方が普通である。ところが、著者は個人的な理由から学問的には多少弱いとわかっていても書く場合もあるとする。例えば梅原猛、歴史学の専門家ではないもののアカデミズムの世界の人間である。1969年彼は立命館大学教授を辞した。時まさに大学紛争のさなか、大学の対応への抗議である。「隠された十字架」は、1973年彼が京都市立芸術大学に着任し学会に復帰するまでのフリーライター時代に構想したものとする。つまり定職が無く売れることを優先したと匂わせているのだ。そうだろう、歴史の教科書では、法隆寺は聖徳太子が創建したものとされているのに、彼の怨霊鎮魂のために建てられた、とするのだから。そして彼の「奇説」は、前述のように既に「定説」となったように私は感じていたのだが、歴史学会では全くそうではないのだ。