シェエラザードとは、アラビアンナイト「千夜一夜物語」の語り手であるから、浅黒い肌ながら豊満なまだ年若い美女を思う。ところが、この短編のシェエラザードは肉体的には似ても似つかない35歳の女である。35歳の女というのは微妙で、体型を保っている者もいるが、この小説の主人公(羽原:31歳)がシェエラザードと名付けた女は、小学生の子供2人いること相応の体型-つまりもう若さを寸分もとどめていない体型の女である。羽原が「シェエラザード」と名付けたのは、週2回の性交の後、「千夜一夜物語」のシェエラザードよろしく不思議な話を必ず聞かせてくれるからだ。
中学生の頃、「千夜一夜物語」(バートン版―英語からの重訳である)をむさぼり読んだ。エロチックな話によくわからないながらも興奮して読んだのである。一般的には、「シンドバッド」や「アラジンと魔法のランプ」(これは原典には存在しない)など有名だが、その中のごく一部に過ぎない。妻の不貞を知ったアラビアの王が、女性不信となり、国中の若く美しい女と毎夜性交しては翌日殺していた。そこで大臣の娘シェエラザードが自ら王の夜伽をすることを申し出る。性交の終わった後に面白い話を朝までし、王はその話の続きが聞きたいばかりに彼女を次の夜まで生かす。それが1000夜続き最後に王は改心するというお話である。話の中にまた話が出てきたりする長い長いお話である。
「女のいない男たち」の単行本を本屋で見る。既に「文藝春秋」で連載された4編の他に、別の雑誌に掲載された「シェエラザード」、書下ろしの「女のいない男たち」があり、10数分ほどで立ち読み(完了)した。
読後不思議な感じがしたのは「シェエラザード」である。この短篇集、死亡や他の男に走ったりして、女を失った話で出来ているはずなのに、これはそうではない、少なくとも明瞭には書かれていない。女は自分の前世はヤツメウナギだという。ヤツメウナギは鯰に寄生して生きているとも言う。女は高校時代好きだった同級生の家に忍び込みチビた鉛筆を盗み代わりに生理用品を置いてきたりする。羽原はなぜ「ハウス」(と小説にあるだけでなんの説明もない)に住んでいるのか。女は週2回「ハウス」を訪れ食品を持参し冷蔵庫にしまい、性交し、話をし、話が途中でも夕方定時には家に帰る、思い切り生活感のあるのに対し、羽原はまるで生活感がない。なぜ「ハウス」を出られないのか、毎日何をしているのかも全くわからない。「女のいない男たち」の1編ということを考えると「シェラザード」は去って行くということか。しかし、それを思わせる記述は特にない羽原が女に寄生される何ものかを持っているとも思えない。それとも、羽原は記憶を失っていて、実は女が高校生の時好きだった(が、一顧だにしてもらえなかった)同級生なのか(31歳と思い込んでいるだけ)。文芸作品においては、読者の解釈は自由である。ことに、村上においてその余地を意図的に広くしている。ならば一番面白い解釈をすべきだろう。
前から村上の小説に男女の絡みはあっても、そのほとんどが「恋愛小説」ではないと書いているが、これもそうだ。人によっては「村上は女をセックスの対象としか見ていない」と評する向きもあるだろうが、これは明らかに誤り。主人公が男だからそう見えるだけで、男と女でどちらが上ということはない。性交場面は頻繁に出てくるが、そのことに悩む姿を書く(恋愛小説)ばかりが小説のあるべき姿ではあるまい。だから、私は評価する。
この短篇集、珍しく「まえがき」があって、「文藝春秋」に掲載された4編のうち2編は部分的な修正を余儀なくされたとも書いている。タバコのポイ捨てが普通と書かれた土地からと、「イエスタディ」の勝手な訳に苦情があったらしい。なるほど、色々大変なご時世ですな。
中学生の頃、「千夜一夜物語」(バートン版―英語からの重訳である)をむさぼり読んだ。エロチックな話によくわからないながらも興奮して読んだのである。一般的には、「シンドバッド」や「アラジンと魔法のランプ」(これは原典には存在しない)など有名だが、その中のごく一部に過ぎない。妻の不貞を知ったアラビアの王が、女性不信となり、国中の若く美しい女と毎夜性交しては翌日殺していた。そこで大臣の娘シェエラザードが自ら王の夜伽をすることを申し出る。性交の終わった後に面白い話を朝までし、王はその話の続きが聞きたいばかりに彼女を次の夜まで生かす。それが1000夜続き最後に王は改心するというお話である。話の中にまた話が出てきたりする長い長いお話である。
「女のいない男たち」の単行本を本屋で見る。既に「文藝春秋」で連載された4編の他に、別の雑誌に掲載された「シェエラザード」、書下ろしの「女のいない男たち」があり、10数分ほどで立ち読み(完了)した。
読後不思議な感じがしたのは「シェエラザード」である。この短篇集、死亡や他の男に走ったりして、女を失った話で出来ているはずなのに、これはそうではない、少なくとも明瞭には書かれていない。女は自分の前世はヤツメウナギだという。ヤツメウナギは鯰に寄生して生きているとも言う。女は高校時代好きだった同級生の家に忍び込みチビた鉛筆を盗み代わりに生理用品を置いてきたりする。羽原はなぜ「ハウス」(と小説にあるだけでなんの説明もない)に住んでいるのか。女は週2回「ハウス」を訪れ食品を持参し冷蔵庫にしまい、性交し、話をし、話が途中でも夕方定時には家に帰る、思い切り生活感のあるのに対し、羽原はまるで生活感がない。なぜ「ハウス」を出られないのか、毎日何をしているのかも全くわからない。「女のいない男たち」の1編ということを考えると「シェラザード」は去って行くということか。しかし、それを思わせる記述は特にない羽原が女に寄生される何ものかを持っているとも思えない。それとも、羽原は記憶を失っていて、実は女が高校生の時好きだった(が、一顧だにしてもらえなかった)同級生なのか(31歳と思い込んでいるだけ)。文芸作品においては、読者の解釈は自由である。ことに、村上においてその余地を意図的に広くしている。ならば一番面白い解釈をすべきだろう。
前から村上の小説に男女の絡みはあっても、そのほとんどが「恋愛小説」ではないと書いているが、これもそうだ。人によっては「村上は女をセックスの対象としか見ていない」と評する向きもあるだろうが、これは明らかに誤り。主人公が男だからそう見えるだけで、男と女でどちらが上ということはない。性交場面は頻繁に出てくるが、そのことに悩む姿を書く(恋愛小説)ばかりが小説のあるべき姿ではあるまい。だから、私は評価する。
この短篇集、珍しく「まえがき」があって、「文藝春秋」に掲載された4編のうち2編は部分的な修正を余儀なくされたとも書いている。タバコのポイ捨てが普通と書かれた土地からと、「イエスタディ」の勝手な訳に苦情があったらしい。なるほど、色々大変なご時世ですな。