「一茶」について書いたが、例によって書いたことが正しいか不安になって藤沢周平全集23巻「周平独言、小説の周辺」を読んでみた。司馬遼太郎と異なり、藤沢周平を読み出したのは退職後である。周平全集の最後の数巻(この23巻を含む)のエッセー等を除いて小説はあっという間に全巻読んでしまったのだ。それほど面白かったということがわかる。
不安の理由は、「一茶」は実家を守ってきた異母弟の財産を悪どい手段を使ってまで分捕る姿や52歳にして28歳の若妻との荒淫の日々いや夜夜の姿を描いているにもかかわらず、私は「作者は冷たい視線で描いているとは思えない」と書いたが、「一茶」の巻末の解説にはそうは書いていないのが気になっていたことにある。この23巻で作者自身がどう書いているかを確認したところ、私の感じた通りであることがわかった。
「(ある時)驚倒すべき文章を読んだ。(中略)私の頭の中には、善良な眼を持ち、多少滑稽な句を作る俳諧師の姿があっただけだった。童心の人といわれた良寛と好一対の、田舎者じみた好々爺の俳句よみを、私は長い間頭に思い描いていたわけである。そういう私の一茶像をみじんにくだくようなことが、私の読んだ文章には記されていた。(中略)本を読んだ結果、ある人物のイメージが一変するという経験はないことではない。だが、これは極端だと私は思った。その変化が別に不快だったわけではない。私はあっけにとられ、やがて私の中に長い間村夫子然とした何食わぬ顔で座りつづけていた、一茶という俳句よみにあるおかしさと親しみを感じないわけにはいかなかった。(中略)そのときから、それまでほとんど何の関心も抱かなかった小林一茶という俳人が、私の気持ちの中に入り込んできたのは事実である。私は少しずつ一茶の伝記や俳句を読みようになった。」
藤沢周平の意図はまさに私の想像通りだったのである。安心した。