”恵美ちゃん、星になる。その2” | eteko屋スタジオ

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恵美ちゃんが星になったのは、去年のことだったんだ。

 

この記事が出てきてから、いろいろなことを思い出した。

 

恵美ちゃんは、親父の兄弟だから、etekoからは、叔母さんということになる。

親父は長男で、年の離れた兄弟が5人いる。

 

この事情は、奇妙な親父の人生の一つだ。

 

親父の両親は、福島県の会津で結婚して暮らしていた。

親父の両親は、etekoの父方の差父母ということになる。

そして、二人の子供をもうけた。

 

親父と姉の兄弟だった。

 

祖父母が、この時、何を生業にしてたかは分からない。

祖父は臨時教員をしていたのかもしれない。

祖父母から、会津にいた時の暮らしの話は聞いたことがない。

 

ただ、周りの親戚は、米作り農家ばかりだ。

戦前のことだから、当たり前の日本の風景だ。

 

祖父母も米を作っていたんだろうか。

祖父の親も農民だったんだろうか。

 

祖父母は明治生まれだったのか。

その親となると幕末生まれなのか。

 

祖父母は農家だったのか。

祖父母の会津時代の事は何も知らない。

聞いてないよ。

 

祖父母や親の人生をほとんど知らない。

知っているものも、消えていく。

 

自分の人生を知っている者もいなくなっている。

 

いつも、文章はまとまらないなあ。

 

 

恵美ちゃんの事を書こうとしたのになあ。

親父の年の離れた叔母の事を恵美ちゃんというのには訳がある。

 

桜川のぼろ屋敷を建てて、新町から移ったのは、昭和35年だったろうか。

親父は、新町から多賀地区に移ると、米屋の商売は、最初はうまく家内と考えたようだ。

店を作っても、固定客は皆無だ。

商売は成り立たないと考えていた。

 

お客さんがつくまでに、貸家業で食いつなごうと考えたらしい。

貸家といっても、店舗の横に家族4人の住居スペースと10部屋の畳を敷いたバカでかい木造の2階建ての家を建てた。

 

建った時は新築の木造の二階建ての家だった。

 

最初は、日立製作所の国分工場の男子寮になった。

高度経済成長の波に乗り、日立製作所も大きく発展していた。

 

日立鉱山のふもとから始まった、モーターなどの電化整備から始まった掘っ立て小屋?から始まった日立製作所は、最初は、2人くらいの創業者から始まった。

それが、関東大震災の時に、大躍進した。

 

それまでにも、日立鉱山は、海のそばという立地もあり、繁栄していた。

日本の近代化にともない銅鉱石は貴重だった。