沿 革
このゴルフ場は、日立製作所創業社長の小平浪平翁が社員の健全娯楽と外国賓客の接待を考えて昭和11年10月11日に「日立ゴルフ倶楽部」という名称で開場しました。設計は、井上誠一氏で18ホール・パー74の本格的なコースで茨城県で最初にできたゴルフ場でした。
しかしその7年後の昭和18年7月、戦争激化で日立ゴルフ倶楽部は解散、コースは農地化されました。
終戦後、農地化されたところは、シオン学園などへの売却、農地法による政府への売却で残ったのは、クラブハウス前のあまり広くない芝生だけでした。
昭和25年、残った芝生に造った3ホールのショートホールから戦後の大みかゴルフクラブはスタートしました。
昭和28年には6ホールに拡張され、昭和37年に8ホールのゴルフコースになり日立製作所の福利厚生施設として運営されています。一般の方も利用可能です。
なお、グリーンは、開場以来高麗芝で、最近では希少価値になっています。
クラブ紹介
| 管理 | 日立製作所 |
| 所在地 | 〒319-1221 茨城県日立市大みか町6丁目19-22 TEL/FAX: 0294-52-5052 |
| 宿泊施設 | ありません |
| コース | 規 模 : 8H/2257Y/P30/20万m2 設 計 : 当初 井上誠一氏 |
| 練習場 | ・アプローチ練習場 2時間:550円 ・簡易練習場 #9アイアン以下 入場料:200円、1箱(24球):100円 |
| 加盟協会 | 加盟なし |
| 貸クラブ | 2セット準備 500円/セット |
| キャディ | いません |
| Credit card | 使えません |
![]()
お願い!

デボット跡に目土砂を
このゴルフ場は、営利を目的とした商業施設ではありません。
デボット跡を補修する作業者をかかえておりません。デボット跡は、コース、練習場にかかわらず必ずプレヤー当人で修復していただくようお願いします。
デボット跡修復は、マナーの基本です。
開閉門と駐車場案内
オリジンパーク設立に伴い開閉門が設置されると共にゴルファーの駐車場が変更になりました。
開門: 8:00
閉門:17:00
スタートの遅い組は、閉門時間を意識してください。
下図を見て駐車してください。
クラブハウス前の駐車場は、オリジンパークの駐車場ですから、絶対に駐車しないでください。

プレー案内
プレーは、すべて予約が必要です。また、一人プレーはできません。
6ホール3回の18ホールプレー
- <予約受付>8:30~17:00
- <スタート>8:40~11:00
6ホール2回の12ホールプレー
- <予約受付>8:30~17:00
- <スタート>13:00~13:50
6ホール1回の6ホールプレー
- <予約受付>8:30~17:00
- <スタート>14:00~15:00
練習場(1.は予約が必要です。)
- アプローチ練習場(9:00~15:00、2時間 or 1日)
- 簡易練習場 (8:30~15:30プレー終了)
- パタ練習場 (随時)
(注)大みかゴルフクラブのホームページはありませんでした。そのため利用者は不便を感じていたので、HSG会の有志が、大みかゴルフクラブの了解を得て応援ホームページを作成しました。(2017/7/11)
3/11の震災前までは、こののゴルフ場のメンバーだった。
週一ぐらいでラウンドしてた様な気もする。
ロックヒルもメンバーだったんで、週に二回のペースもあったなあ。
ひどい時には、他のコンペとか誘われて、連荘で3日か連続なんて言うのもなんどもあったなあ。
へたっびのおじさんゴルファーなのにさあ。
なにしろ、etekoがゴルフを始めたのは、40近く鳴ってからだよ。
会社では、ゴルフのコンペとかよくやってて、上司の人から、etekoもゴルフをやれと、良く誘われていた。
もともと運土絵神経のいいetekoだったけど、小さなボールを打って、穴に入れるだけのスポーツに高いお金を払ってやる気は、1ミリもなかった。
ゴルフ代を払うくらいなら、安い居酒屋に行って
4、5回はぜいたくできるよ。
あの時代は、茨城県内でも、地元のゴルフ場では、2、3万円は取られたなあ。
会社のコンペなんか、常磐高速使って、隣の県のいわき市のゴルフ場迄幾の常だったなあ。
それに、栃木だった。
茨城の県北地方のゴルフ場はできたのも古くて高かったなあ。
メンバー以外のぺいぺいが予約撮るのも大変だったなあ。
メンバーさんの紹介がないと駄目だったなあ。
キャンセルすると、キャンセル料として、一人一間ぐらい平気で取られてたなあ。
それに、セルフとか普及する前で、キャディー酸がついたなあ。
ゴルフを機締めたころは、若い女の子のキャディーさんがつけばいいなあと思ってた時も会ったなあ。
ゴルフにのめりこんでからは、キャディーさんはおばちゃんばかりというのを学んだ。![]()
![]()
(追記)
大みかゴルフ場をぐぐってみて、後からいろいろ思った。
このゴルフ場って、常磐線の大みか駅の山側に拡がっている。
これって、ギネス級の記録じゃあないのかなあ。
大みか駅の上り線路が打ちっぱなしの練習場との境界になってる。
反対に言えば、ゴルフ場の設置場所の端に、常磐線の駅が有るということだ。
考えてみたら、こんなゴルフ場って、世界無二じゃあないのかなあ。
etekoは、打ちっぱなし練習場とは線路を挟んだ、日立エンジニアリング(株)の電子工場という会社に、二十数年務めてて、大型CADをやっていた。
etekoが配属された部門は、遠方監視装置を設計する部門だった。
電子設と呼ばれてた。
電子設の人員は、何人いたんだろう。
常時、50人くらいはいただろうか。
もっといたなあ。
遠方監視装置は、公共機関に納める装置だ。
この装置を納めるクライアントごとに、電力、道路、利水、ソフトなどの課に分かれていた。
遠方監視装置を設計するには、図面、仕様書、などの膨大なドキュメントを作成しないといけなくなる。
これを、電子工場の前を通る道路に接する大みか工場の図面庫に入庫しなければならない。
入庫する図面には、大みか工場の計設部の課長や部長の審査、承認のサインを貰わなければならなかった。
審査、承認は、図面の右下にある表題欄に日付とともに記入しなければならない。
後々、分かってきたのだが、日立エンジニアリング()(株)は、大みか工場の子会社のようなものだ。
子会社じゃあないなあ。
多賀地区にある国分工場が親会社だなあ。
そんな事を言い始めると、日立鉱山の大煙突の下の敷地から始まった日立製作所発祥の掘立小屋に辿り着いてしまうなあ。
日立エンジニアリング(株)は、4大目くらいなのか。
日立エンジニアリング(株)を前にググってたら、会社の名前に、エンジニアリングという言葉を入れたのは、日立エンジニアリング(株)が、最初だと聞いた。
とりあえずは、大みか工場の子会社みたいな存在だ。
etekoが、CADを導入し始めたころは、大量のドキュメントは、手書きのアナログだった。
それをデジタル化するのが、etekoの仕事だった。
設計部門はクライアントによって電力、道路、利水、ソフトに分かれている。
課長の下に、設計担当者が2、3人いて、その下に設計の補助員がいる。
設計補助は、日立エンジニアリング(株)の子会社や孫会社の協力会社と呼ばれてた。
この子会社は、親会社で工場長や部長を務めた定年者が立ち上げた人材派遣会社だ。
それらの人員を合わせると、50人以上では収まらないなあ。
遠方監視制御装置の図面をデジタル化するごとに、日本各地の地名や電力会社の名前を知った。
ダムの名前なども。
東京電力の名前しか知らなかったetekoが、沖縄電力、四国電力関西電力、東北電力、北海電力など、地域によっていろいろあるのを知った。
設計の担当者は、クライアントの納入先に、現地調査に出張することも多かった。
遠方監視制御装置というのは、人のいないところに、測定装置を設置して、これを一か所で制御するものだ。
これを一か所に置いた操作卓で管理するものだ。
沖縄電力に、出張した担当者は、現地は、ハブが出るので怖かったと話していた。
大みか工場は、電子工場の海側に接すると書いたが、道路の歩道側には、高い金網のフェンスが建てられている。
そこから見える土地は、200メートルの荒野になってる。
荒野の端っこに、工場棟が見える。
そこは、臨海工事用と呼ばれてる。
その隣が海側に大みか工場棟がある。
電子工場から大みか工場の正門まで500メートルくらいかなあ。
もっとあるような気がする。
正門の海側を国道245号線が走ってる。
245 号戦の海側は30メートルぐらいの断崖になってる。
断崖の下は、砂浜が広がっていた海水浴場になっている。
そして海は太平洋だ。
先に書いたと工場の広い荒野には、古墳が有るという。
その為に日立製作所は開発できないと言う話を聞いた。
庫の荒野に調査の手が入ったという話は聞いたことない。
今、改めて気づいた。
海から風神さんのふもとまでの土地を日立製作所で買い上げてたんだね。
日立製作所の元気だった頃の遺跡だなあ。
海から風神山までの縦方向の広大な土地を購入していた。
海から大みか工場、日立エンジニアリング(株)の電子工場の敷地。
常磐線の線路を挟んで山側に大みかゴルフクラブ。
そして、6号国道に分断された大みか神社。
大みか神社の土地は購入してないなあ。
大みか神社の事も調べたくなったなあ。
大みか神社は風神山のすそ野に、太平洋を望める高台に位置してる。
古墳が有って神社がある。
興味深々だ。
そして、山側には、日研と呼ばれる、日立製作所の研究所のビルが建っている。
日研は、長い間、昭和の時代までは、日立市で一番高いビルだった。
おおみか方面に行くと必ず、日研のビルが見えた。
ここでは、日立製作所の製品の開発をした場所だと聞いてる。
日研で開発した有名な製品の話を聞いたことないなあ。
優秀な人材は集まってなかったのかなあ。
電子設の管理課にも、Mさんというおじさんが出向していたけど、研究者という人格とは程遠かったなあ。
etekoも、電子設部に配属されたときは、この管理課に配属された。
最初は、PCで、管理課の数字計算の管理ソフトを尽くされたのを思い出した。
その頃は、定年まじかの爺さんが、手計算で、部内の時間管理の集計計算を手計算でやっていた。
その頃のetekoは、マイコンと呼ばれてたPCで、ベーシック言語のソフトを少しかじってたくらいだった。
その時には、数字のソートのを使うこと覚えたばかりのころだった。
NEXTとかのループ言語や集計の言語なんかを駆使してソフトを
思い出したけど、当時の電子設の建屋は、序盤戦の線路の海側に鉄骨の2階建ての建屋。
道路に面した正門側に入った平屋の古城等がたっていた。
電子粒は、大きなプレハブに近い2階の半分のフロアを占めていた。
残り半分は、応用シと呼ばれてる部門だった。
応用シはソフトハウスのような部門だ。
ここの一部で、大型CQDのソフトとの開発や面てランスをやっていた。
この重宝系の建屋は、端に入り口があり、裏面に、2か所くらい入り口があった。
入り口からは、2階フロアに上がる階段がある。
両端の階段を登り切った踊り場から左右に貫く通路がフロアの真ん中を左右に走ってる。
通路といっても、階段を登り切ったフロアは、だだっ拾い平面だ。
ドアを開けて2階のフロアに真ん中の通路の左右に社員の机やいすが置かれていた。
電子設部と応用シ部の区切りの半分のところが、壁で仕切られていた。
一回は、製品政策の現場だった。
一階のフロアーは、仕切りはなく、政策途中の製品がならべられていた。
遠方監視制御装置は、キュービックと言う箱の中に、ソフトをインストールしたボードを組み込んだものがほとんど。
この頃の製品は、ビデオなんかのソフトとは対応してなかった。
いろんなセンサーに対応して、作動する入り切りの世界だった。
製品を組み立てる作業員。
青品が仕様通りに作動するかの検査員が現場の人間とよばれていた。