おお-、ぴっくりこいだ。
ここの記事に載ってる剣道場の道を大煙突の方に行くと、etkoの生誕の地があるよ。剣道場の反対側に大正時代に建てられた共楽館がある。
倒壊した大煙突の方に行ったところに、親父が米屋をやってた仮店舗がある。
ちょっと先に行ったところに、両親が住んでた借家があった。
ず-と行くと鉱山病院がある。
etekoが、借家のタライで産婆さんに取り上げられたのか、鉱山病院で産声を上げたのか記憶にない。
両親にも、etekoがどこで生まれたかは聞いた事がない。
この地域には、etekoが幼稚園に入るまでこの地域で暮らしてた。
その頃の記憶も少し残っている。
幼少のetekoは、米屋の商売で共稼ぎの両親に、米屋の店舗に毎日連れ行かれた。奥の、狭いスぺ-スに寝かされていたと思う。
物心がついてきて、周りの状況も分かってきた。
隣がすし屋さんだった。
その向かいが、電気屋のラジオ屋さん。
化粧品や雑貨を置いてるお店。
肉屋もあった。
そのお店には、同年代くらいの子供がいて、毎日遊んでいたなあ。
ここの現在の写真を見て、61年前の消えそうになってる記憶がよみがえってきた。
この時に、ラジオさんの二階の住居スぺ-スで、テレビと言う物を初めて見た。
共楽館で大画面のスクリ-ンで映画はたくさん見てたけど、映画と比べたらちっぽけな箱に動画が映るのがおどろきだった。
夕方頃頃に近所の人達が集まり、白黒の画面に見入った。
狭い部屋に20人近くは集まってた思う。
子供だけじゃなく、その家族もあつまるからね。
この地域は、昔は、新町と言われた。
新町で最初に入ったテレビはラジオ屋さんの家だった。
家が電気屋だからね。
でも、ラジオ屋さんの店は、東芝しか扱ってなかった。
日立で最初に見たテレビは、東芝製なのはまちがいがない。
力道山を見たと言う記憶はない。
ここで見たテレビで記憶に残ってるのは、時代劇の丹下左膳だけだなあ。
俳優は,大河内伝次郎だったかなあ。
それしか見た記憶がない。
このテレビの鑑賞会は、何度も続いたはずなんだけどなあ。
丹下左膳を見た記憶しか残ってない。
店の片隅に放置されていたetekoは、物心ついたころから落書きをはじめた。
ベニヤの壁板?に、蒸気機関車の絵を描いたのを記憶してる。
店の奥の壁だったので、親は何も言わなかった。
むしろ喜んでたのかもしれない。
この頃は、漫画本も買い与えられていた。
その頃は、月間の漫画、少年だったなあ。
そこで、手塚治虫の鉄腕アトムなどの衝撃的な出会いがあった。
鉄人28号もだなあ。
そんな漫画達の洗礼を受けたんで、落書きがすきになった。
いろいろ思い出すなあ。