”ひと「ヤマ」みな家族” | eteko屋スタジオ

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勝手気ままに生きてる自己中だよ。
妄想では、苦節40年のミュージシャンなのだ。

 

おお-、ぴっくりこいだ。
ここの記事に載ってる剣道場の道を大煙突の方に行くと、etkoの生誕の地があるよ。剣道場の反対側に大正時代に建てられた共楽館がある。
倒壊した大煙突の方に行ったところに、親父が米屋をやってた仮店舗がある。
ちょっと先に行ったところに、両親が住んでた借家があった。
ず-と行くと鉱山病院がある。
etekoが、借家のタライで産婆さんに取り上げられたのか、鉱山病院で産声を上げたのか記憶にない。
両親にも、etekoがどこで生まれたかは聞いた事がない。
この地域には、etekoが幼稚園に入るまでこの地域で暮らしてた。

その頃の記憶も少し残っている。
幼少のetekoは、米屋の商売で共稼ぎの両親に、米屋の店舗に毎日連れ行かれた。奥の、狭いスぺ-スに寝かされていたと思う。
物心がついてきて、周りの状況も分かってきた。

隣がすし屋さんだった。
その向かいが、電気屋のラジオ屋さん。
化粧品や雑貨を置いてるお店。
肉屋もあった。

そのお店には、同年代くらいの子供がいて、毎日遊んでいたなあ。

ここの現在の写真を見て、61年前の消えそうになってる記憶がよみがえってきた。

 

 

この時に、ラジオさんの二階の住居スぺ-スで、テレビと言う物を初めて見た。

共楽館で大画面のスクリ-ンで映画はたくさん見てたけど、映画と比べたらちっぽけな箱に動画が映るのがおどろきだった。

 

夕方頃頃に近所の人達が集まり、白黒の画面に見入った。

狭い部屋に20人近くは集まってた思う。

子供だけじゃなく、その家族もあつまるからね。

 

この地域は、昔は、新町と言われた。

新町で最初に入ったテレビはラジオ屋さんの家だった。

家が電気屋だからね。

 

でも、ラジオ屋さんの店は、東芝しか扱ってなかった。

日立で最初に見たテレビは、東芝製なのはまちがいがない。

 

力道山を見たと言う記憶はない。

ここで見たテレビで記憶に残ってるのは、時代劇の丹下左膳だけだなあ。

俳優は,大河内伝次郎だったかなあ。

それしか見た記憶がない。

 

このテレビの鑑賞会は、何度も続いたはずなんだけどなあ。

丹下左膳を見た記憶しか残ってない。

 

店の片隅に放置されていたetekoは、物心ついたころから落書きをはじめた。

ベニヤの壁板?に、蒸気機関車の絵を描いたのを記憶してる。

店の奥の壁だったので、親は何も言わなかった。

 

むしろ喜んでたのかもしれない。

この頃は、漫画本も買い与えられていた。

その頃は、月間の漫画、少年だったなあ。

 

そこで、手塚治虫の鉄腕アトムなどの衝撃的な出会いがあった。

鉄人28号もだなあ。

 

そんな漫画達の洗礼を受けたんで、落書きがすきになった。

 

いろいろ思い出すなあ。