第771回『《1937「Nanking(南京)」Documentary film》(「戦線後方記録映画」東宝文化映画:55分)永久保存版』【水間条項TV】
両親は昭和一桁生まれだった。
両親は若い頃の話は、ほとんどしなかった。
ただ、親父は知幼年兵で陸軍に入隊していて、終戦を迎えたらしい。
親父の祖父母は、福島県の会津に暮らしていたが、ブラジルに移民して一旗揚げようと、幼い姉と親父を親戚にあづけて神戸にむかった。
親父の両親は、手持ちの財産を売り払って神戸まで向かった。
移民の為の資金を集めて神戸に向かった。
しかし、最終試験で爺さんが、引っかかり、ブラジル移民は出来なかった。
それは大東亜戦争の敗戦の以前の話だ。
爺さん達は、故郷の会津には帰れなかった。
ブラジルに移民して、一旗揚げて。故郷に錦をかざるはずだったのに、
故郷に近い茨城県の日立市まで戻って働き始めた。
爺さん畑に幼い頃、家のある米屋から池の川にある畑に連れられて行ったことがある。
自転車の荷台の籠に載せられて行った。
そのの時に、日立市に艦砲射撃や空爆があった時には、食糧倉庫の管理の
仕事をしていたと言う。
倉庫が被弾して、穀物の袋が破れて、その時に穀物の中に埋まってしまい、死にそうになったと言う。
仲間が掘り出してくれて九死に一生を得たと言う。
爺さんの話を聞いたのは、池の川の畑に行った時に聞いた話だ。
と言うことは、戦後に米屋を始めた事になる。
そこに幼い頃に分かれた親父が復員して、店を手伝ったことになる。
親父が復員した時には、年の離れた姉弟が5人いた。
爺さんは、身体は華奢で、重い米の配達なんかできない。
それに視力が悪かった。
これが、ブラジル移民で落とされた原因だった。
それと対照的に復員した親父は、子供のころ頃から預けられた親戚の家で、田んぼや農作業を手伝わされて、頑強な身体になっていた。
年の離れた姉弟は、女3人、男2人だった。
この頃は、みんな幼く、店の手伝いは出来なかった。
親父は、バイクをで、店の配達をやっていたみたいだ。
オ-ト三輪もあったはずなんだけど、こっちはあんまり印象にに残ってないなあ。
考えてみたら、家には車があるの当たり前だったなあ。
ある時、花園渓谷辺りに、親父と寮生で蕨とりに行った時のことが印象に残ってる。
マイカ-で行った。
トヨタのクラウンのバーンだと思う。
寮生はナカちゃんの葬儀に来てくれたSさん、Kさん、Uさんがいたと思う。
寮生の人達は、山形県あたりから集団就職で、日立の国分工場に来た若者達だった。
この人たちは、他県から就職に来て、日立市内に所帯をもうけた。
葬儀の時に、年を聞いたら、もう80代だと聞いて驚いた。
考えてみたら、etekoも、還暦をとうに過ぎている。
日曜日辺りに、親父は、etekoと若い寮生を乗せていろいろなところにドライブした。
釣りにも行った。
民家かあるところで車を止めたら、民家の子供達や大人たちが出てきて、止めた車を見物に集まってきた。
あの頃は、乗車と言う物が普及してない頃だった。
筑波山にいったのも、このメンバ-だったなあ。
筑波山に行ったのは、この時だけかなあ。
BQ言う物を初めて味わった。