CAD屋 創作ノート その2
私は大学を卒業した。
そして、地元の日立製作所系列の工場に潜り込んでいた。
その会社には、社会人になってから25年近く勤務してた。
まともなサラリーマンと言うか、エンジニアだった。
大学は浪人してして、東京の三流私大のN大学に行っていた。
浪人時代は、宮城県の仙台市の予備校に通っていた。
先代の予備校に通う事になったのは、親父の知人のラジオ屋さんの息子が先代の予備校に通って、東北大学に入学したからだった。
ラジオ屋さんと言うのは、日立市の新町の商店街で、電気屋を始めた人だった。
その向かい側の仮店舗で、親父は米屋をやっていた。
この新町は、剃立鉱山の坑道から流れてくる宮田川の河川に沿った、神峰山と宮田川に沿った道路に拡がる商店街だった。
日立鉱山は、明治の末期頃から銅山とて開発が発展的に開発が進んだ。
日立鉱山は時代の波に乗り隆盛を極めていった。
明治の富国強兵の波乗りの覇者ともいえる。
日立鉱山の坑道口は、太平洋から、2キロもない、神峰産の中腹にある。
この鉱山金鉱目当てに、平安時代辺りから、山師達や、その時の権力者たちが開発しようとしていた。
この地域は、青森県から連なる阿武隈山系の太平洋側の最先端だ。
東日本の背骨のような夫あ゛熊山系から太平洋に流れ込む河川からは、太古から砂金が採れいてた。
取れていたというか、検出されていた。
その砂金の出どころと言うか、鉱脈を狙って、多くの山師たちが、この阿武隈山系には、入り込んでいた。
園山氏は、との時々の権力者、地主に取り入っていた。
そして、宗教にも。
山伏だ天狗た、修行僧だと言いながら、その実は一獲千金狙った山師達だった。
一獲千金にありつけなかった修行僧は、その地に神社を作ったりして、当時の権力者に取り入った。
金鉱を発見できたものは、平泉の藤原氏に取り入って甘い汁を吸えた。
日立鉱山も金鉱を狙って、山師が平安辺りには、多くの山師が入り込んでいたようだ。
宮田川の神峰山の反対側の高鈴山系にも、古くから開発それた坑道があるみたいだ。
日立鉱山の元をたどれば、この高鈴山の鉱山の開発から、海側の方に勧められたようだ。
しかし、この辺りの鉱山は、古代から明治の後半まで、何度も進められたが、鉱山から発生する鉱毒で何度も中断されていた。
江戸事態になって、御三家の水戸藩が、佐竹藩に変わって、この一帯の鉱山を開発に乗り出したが、鉱毒の発生で開発は中断せざるを得なかった。