オランダ「朝鮮人は悪魔の様な奴らだ」国民の実態が続々と明るみに出る
と言う動画を聞きながらの殴り書き。
こんな話しをほとんどの日本人は知らないなあ。
でも、大東亜戦争以前の日本人はみんな知ってたんだろうなあ。
諭吉さんや新井君達はリー地域の人モドキの事を的確に知っていた。
的確に後の日本人に警告してる。
母方のお墓詣りは、30日だった。
ここのお墓は、ナカちゃんが実家のお墓を、高萩の叔父さんの家の近くに開設された菖蒲霊園に移設した。
そして、ナカちゃんのお骨は、このお墓に納まった。
高萩の叔父さんは、ナカちゃんの弟だ。
今年が米寿のお祝いだった。
ナカちゃんは、米寿のお祝いをした次の日に倒れた。
ナカちゃんよりは、6歳下の弟なんだと再認識した。
ナカちゃんが倒れて、病院のベットで寝たっきりになったのが3年と3か月だった。
そして、去年が、ナカちゃんの三回忌だった。
そして、高萩の叔父さんも去年、米寿を迎えた。
ナカちゃんは三女だと言う。
その下に高萩の叔父さんがいる。
ナカちゃんの兄弟で、残ったのは高萩の叔父さんだけになった。
墓参りを終えて、叔父さんの家によって、歳暮を届ける。

叔父さんの庭に、ブーさんの車をいれると軽自動車が止まってた。
先客がいるみたい。
ブーさんが、娘のエミじゃないかと言う。
ぶーさんは、「暗くなる前に帰ろう。」
「上がらずに帰ろう。」、と言う。
市役所の山側にあるマルトで買った缶ビールの歳暮を抱えて、玄関に向かった。
玄関の横にある茶の間の音声が聞こえていた。
鍵のかかって無い玄関の戸を開いて、「こんばんわ。」と、3、4 回繰り返す。
家の中から返事が返ってこない。
やっと叔父さんが返事して出てきた。
挨拶をしてると、奥から叔母さんも出てきた。
ぶーさんの姿を見つけると、渡りに船と言う感じで、奥からなかなか出てこない訳を話し始めた。
「年賀状の返しを出すつもりだったんだけど、PCが上手くつながらなくなっちゃったの。それで、エミに来てもらって、見てもらってるんだけどうまくいかなくて困ってたところだよ。」
家に上がるのを渋ってたブーさんが、PCのおいてある奥の部屋につれこまれた。
etekoは、誰もいない茶の間に通された。
こたつの前に一人座っていた。
しばらくして、米寿を迎えたおじさんが出て来て、etekoの前に座った。
「東京のGさんが亡くなった知らせはきいてる。」
「Gさんがなくなったのかい。まだ若いじゃあないの。」
叔父さんは驚いたように言う。
「そんな話は聞いてないなあ。そう言えば、妹が成沢にいるんじゃあないか。そこから聞いたのかい。」
「いや、11月頃に、亡くなったと言うハガキが届いたよ。前から癌で体調を崩してたみたいだよ。ナカちゃんの葬儀の時も、来なくて香典だけ送ってきたからね。だいぶ前から体調は悪かったみたい。」
Gさんは叔父さんの一番上の姉の息子だ。
叔父さんの甥にあたる。

菖蒲霊園は車道から山側にある。
この車道を挟んだ海側に叔父さんの家がある。
車道からは、車一台が通れる水田の中を通れる農道が200メートルくらい続ている。
50メートルくらい入ると丁字路になっている、この農道を右側に入っていくと、叔父さんの畑があり、その先が叔父さんの家になっている。
ここには、農道の山側は水田になっていて海側は民家が2,3件建っている。
農道が続いてる。
昔から続いてる農家だ。
家の周りに水田を作って暮らしてきた。
それは、江戸自体゛前だろうか。
叔父さんは、この家に、婿養子として入った。
遠い親戚の農家の一人娘に婿養子として入った。
実家の家は、上が三姉妹の女だった。
終戦直後には青年になっていた。
ただ、実家を支える力はなかった。
実家には、誰もいなくなっていた。
上の
三姉妹たちは、それぞれに嫁に出ていた。
一人の力ではどうにもならなかった。
中染の実家を、離れるほかなかった。
中染めの実家は、叔父さんが生まれた頃は、寒村の中にあっても裕福だった。
家も、茅葺の二階建てだったが、村では一番の大きな屋敷だった。
80年に一度の金砂郷神社の大祭の時には、家に20人ぐらいの人達が神輿を海の久慈浜まで運ぶときに泊まり込んだと言う。
神輿を担ぐ人達と言うか、大祭の参加者が、その大きな屋敷に泊まりこんだと言う。
お祭りに参加してる人達が2、3日泊まり込んで、酒を飲み明かしたと言う。

この実家が、山奥の寒村で裕福だったのは、爺さんのが賢かったらしい。
大正時代から、煙草の栽培を始めたみたい。
このタバコの葉は、水府タバコとして、天皇のブランドをもらって、栄えた。
そのおかげで、山奥の寒村の農家が、豪商にも匹敵する農家にのし上がったみたいだ。
そんな家に、三姉妹と、バッチで私が生まれた。
この大きな屋敷は、私が小学生になる前に焼けて焼失した。
家の後ろにあった高い木に落雷した。
その頃の農家の家には、家の周りには、高くなる木を植えると言うのがトレンドだった。
家の周りを高くなる生る木で囲んでいた。
その気に落雷した。
その火の粉が、茅葺の屋根に延焼した。
家は燃えだした。
あの時の事は鮮明に覚えてる。
家の茅葺の屋根が燃え出した。
実はこの時、家の中は、煙草の葉を乾燥させる為に、家中にタバコの葉をつるして乾燥させていた。
そして、乾燥が終わった煙草の葉が、麻袋に詰めて、大量に貯蔵されていた。
茅葺の屋根から延焼した火の粉は、家中に降り注いだ。
その火の粉は、乾燥したタバコの葉に燃え移った。
家中を、燃え移った煙草の麻袋が、大きな火の玉になって走り回った。
この時、上の三人の姉は家を出ていた。
私と、親父と祖父しかいなかった。
大きな茅葺の家には、4人しか家にはいなかった。
この4人だけで、消火活動なんかできなかった。
燃えてる家から、逃げるのがやっとだった。
あの時は、消防と言うものも来なかった。
近場にある消防が来るのは、完全に家が燃え落ちてからだった。
後から消防が来たと言っても、消防車とかあるわけでもなかった。
江戸時代の火消しと変わらない。
その火消しも、山奥の寒村地帯では、人数もいない。

ナカちゃんの実家の家は、母親が若くして亡くなった。
私の下の兄弟を出産する時に、亡くなった。
私が幼い時に亡くなった。
出産の近くまで、農作業に従事してたみたい。
畑からのタバコの葉の収穫と、乾燥の為に家に運び込むために、ずーと労働してたみたいだ。
その疲労が母親の身体をむしばんでいた。
大きなおなかの身体で働きづめだた。
それは、私が3歳くらいの時だったか。
自分を産んでくれた母親がいることは、分かる。
でも、母親の顔を全く思い出せない。
家にあった、母親の写真も落雷の火事でみんな焼失した。
私は、母親の顔と言うものを、今まで生きて来て、全く浮かばない。
思い出せるわけもない。

大きな茅葺の家は落雷で焼失した。
家の隣には、大きな馬小屋と蔵があった。
子の建屋は、落雷の焼失を免れた。
そこに、家を失った私たちが、住み始めた。
祖父母と、親父。
私と、二人の姉だった。
長女の姉は、外に出ていた。
2番目の姉も出ていった。
馬小屋に残された家族は途方にくれていた。
そんな中、親父が出稼ぎに出ると言って、家を出ていった。
その頃は、北海道のニシン漁が隆盛だった。
北海道に出稼ぎに行くと言って、家を出ていった。
馬小屋の家には、祖父母と、私と三姉妹の下の姉だけが残された。
親父が家を出て行ってから、しばらくの間は、便りもあったが、それも途絶えた。
親父は、行方不明になってしまった。
私が、幼少の時に、母親も、父親も亡くした。