メディアが報じない保守系News/hirokumaちゃんねる を ききながらの小説の創作ノートを書き始める。
CAD屋と呼ばれた男。< その 3 >
私は奇妙な人生を生きてきた。
それは本当に奇妙な旅だった。
その男は、奇妙な街で生まれて育った。
物心がついた頃に私が分かったのは、両親が日立市の新町と言うところで、米屋をやっていたと言うことだ。
幼稚園に入る前の幼少の私は、父母が経営する仮店舗の米屋に連れていかれた。
その店の店舗で、私は何不自由なくそだっていた。
奥が一段高くなっていた。
そこは、4畳ぐらいの板張りだった、狭い店の帳場みたいになっていた。
その片隅に、配達籠の一つが置かれ、そこに、私は入れられていた。
まるで、吸いネコのペットのように、そこに入れられて育てられていた。
育てられてた言うか、両親が幼い子供をめの離れない場所に置いておきたかったのだ。
歩けるようになると、私は一人で、店の外に出歩くようになった。
近所を歩き回った。
すぐに、同じくらいの年頃の子供達と仲良くなって、外を遊び歩いた。
この地域の外を歩き回るようになって、驚いたのは、道の向かいにも、商店が立ち並んでいた。
肉屋があって、その隣がラジオ屋さんと言われてた電気屋さん。
その隣が、化粧品やの吉田さんだった。
そんな商店街の店主のお店には、私と同年代の子供達が沢山いた。
大人よりも、子供の方が多いと感じた。
そして、その商店の建屋の裏が鉱山関係のアパートになっていた。
アパートと言っても、昭和30代の初めの頃だ。
木造のかまぼこ型の長屋が続いてた。
そして、その後ろには、カラミ山の断崖が、200メートルくらいの高さで迫っていた。
幼稚園に入る前の私には、その黒い山が魔王のように見えた。
両親は、米屋の貸店舗の近くにある、貸家に住んでいた。
大家さんは、その土地でもともと古くから住んでいた人だった。
小林さんと言う。
私が店に連れていかれなかったときは、小林さんの叔父さん、おばさんに預けられた。
小林さんには、若い娘さんがいたが、まだ家を出てなかった。
私は、小林さんの叔父さん、叔母さんから、あづけられた時は、孫のように可愛がれた。
カラミ山については、あとから知った。
この山は、神峰山の西側の斜面に、銅鉱の精錬に使った石炭、コークスを山の上から、頂上付近から、長年にわたって廃棄してたものだった。
それは、明治時代の後半から、日立鉱山が隆盛を始めた時から始まったみたいだ。
それは、世界一高い煙突が建てられた、日立鉱山の坑道の入り口から始まって、海の方にと向かって続けられていた。
その為に、緑の山は、黒い鉱石で、頂上からふもとまで、黒い壁となって、民家に迫っていた。
黒い壁のところどころに、松の木なのか、緑の葉を顔を出してるところが、ところどころに見受けられた。
緑の山の上に、黒いクズ鉱石を廃棄してたのは明らかだった。
山だけではない。
もともと、新町は日立鉱山の城下町として繁栄していた。
日立鉱山の坑道の下には、宮田川と言う皮が流れている。
この川は、神峰山と、日立市で一番高い山の高鈴山に挟まれたような形になってる。
その境に、宮田川が流れてる。
この二つが折重なったところに日立鉱山の坑道がある。
ここから、太平洋までの距離は、2キロもない。
宮田川の源流は、日立鉱山から山側に2キロはあるのか。
2、3キロも行くと、今度は反対側の常陸太田市の方に傾斜してる。
この短い宮田川は、日立鉱山の鉱石の精錬の為に使われる排水が、そのまま、宮田川に流し込まれていた。
日立鉱山が閉山するまで、宮田川は、いつでもセメント色の流れだった。
川底をみれると言うことはなかった。
この宮田川に沿って、川の両側に、道路が2本走ってる。
この道路は、日立鉱山の坑道の入り口付近で、一本になる。
この道路は、山越えで、常陸太田市へと抜けられる。
常陸太田市に抜ける前の入四間までには、炭鉱の町として知られてた、その当時ではモダンな鉄筋コンクリート造りの炭鉱団地が並んでいた。