私は戦後のどさくさから上手く生きられた方なのか、よくはわからない。
昭和を過ぎた平成の時代まで生きてきたが、分からない。
私は、戦争が始まったあの時に学生だった。
東京から離れた茨城県の常陸太田市で生まれて育った。
茨城県は東京に隣接しているにも関わらず、とにかく、人気のない地方地域だ。
私が東京の大学に行った時も、茨城県は、東北地方だと思われてた。
同僚の誰もが、、私の生まれた常陸太田氏を知らなかった。
でも、私の生まれた家の傍には、水戸黄門が隠居した西山荘があるというと、みんな
話を聞いてくれた。
私の生まれた実家の傍には、西山荘があった。
西山荘には、水戸光圀が死ぬまで隠居してた。
そこで、光圀は、大日本史を編集し始める。
大日本史は、光圀が生きてた間には、編集できなかった。
しかし、光圀が藩主だった水戸藩は、江戸幕府が終わるまでも、大日本史の編集を続けた。
そしてね江戸幕府が終わった明治になっても、大日本史の編集を続けた。
大日本史は、日本の歴史をたどる書物だった。
この書物を仕上げるために、光圀は、全国に、密使というか、記者を送った。
その地域の本当の歴史を聞き出すために、水戸藩の記者を送ったのだ。
光圀
それは、隠密と呼ばれるのかもしれない。
そんな中で、光圀の付き人の格さん、助さんが出てきた。
そして、風車の弥七も、
ああー、これは、私が生きてた昭和の後半の実水戸黄門の
テレビドラマからの知識だ。
ただ、私が生まれた実家の傍には、光圀の隠居所の
西山荘があった。
西山荘の敷地には入れなかったけど、周りには、光圀の馬屋の牧場とか大きなため池があった。
この敷地で、私がガキの頃は、軍隊ごっことか、チャンバラごっこをやってた。
周りには田んぼや畑が広がっていた。
2,3キロの半径の敷地には、かやぶき家の昔からの農家があるだけだった。
でも、チャンバラごっこ
軍隊ごっこをやる時には、そんな過疎的な家から、子供たちが集まってきた。
口から、口に
、口コミで、この日に、チャンバラごっこや
、軍隊ごっこをやるというと、2、3人の子供たちが
集まってきた。
私も最初の頃は、年長の子供に
誘われて広場に集った。
周りの
長さななじみも誘った。
その子供たちの兄弟たちも、遊びに
は参加しないけど、周りで、年上の兄たちが遊んでるのをうらやましいそうに眺めていた。
毎日が、お祭り騒ぎだった。
子供たちのお祭り騒ぎだった。
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