398-③ 「現職の大臣が『独○国家』と問題発言。この大臣で尖閣は守れるの?!」【怒れるスリーメン】篠原×千葉×加藤 を聞きながら、小説家を目指す創作ノートを書いてみる・
CAD屋 ( 創作ノート その1 )
私の人生はかなり面白い。小説に書いたら売るかもしれないなあ。とっても奇妙な人生を辿ってきたなあ。
私の生年月日は、1956年の3月13日だ。
元号で言うと、昭和31年3月13日だった。
この壇上日は、上から読んでも、下から読んでも、31.3.13だった。
それだけの事なんだけどね。
内の親父は日立市の新町と言うところで、米屋をやってた。
この地域は、日立鉱山の城下町と言うか、明治の末期から日立鉱山の城下町として景気が良かった。
茨城県の県北地域に位置する日立市は、もともとは当たり前だが農村地帯だった。
武士が出現した頃には、佐竹氏が支配してた地域だった。
江戸時代になってからは、徳川御三家の水戸藩が支配するようになった。
佐竹氏は長年にわたって、常陸の国を支配していたが、徳川幕府が成立してから、秋田県にくにがえになった。
その代わりに、徳が御三家の水戸藩が常陸の国を統治するようになった。
水戸藩は、水戸黄門の映画やドラマで、戦後、ゆうめいになったが、水戸黄門こと光圀は、常陸太田市の隠居所、西山荘に隠居してから、台日本史を編纂しようとした。
これには、各藩に、部下を派遣したりして資料を集めた。
それに携わったのが、助さん、角さんと呼ばれるおつきの家臣だった。
その話は、水戸黄門漫遊記などの公団になり、黄門様が日本全国を漫遊して、悪をくじき、弱い庶民を救ったと言う話に仕上がった。
でも、実際の光圀は、江戸辺りに行ったのが最長の旅で、後は隠居所の西山荘の周りを散歩してたくらいだった。
大日本史を編纂する為に家臣が、日本全国を飛び回ったの事実みたい。
西山荘から近くの地域には、「風車の弥七」のお墓もあるくらいだよ。
水戸黄門の隠居所の西山荘は、茨城県の県庁にあるわけじゃないよ。
水戸市に水戸藩のお城や梅で有名な後楽園はあるけど、黄門様の隠居所は絵隣の常陸太田市にある。
この地域は、もともとは佐竹氏のお城があった地域だよ。
常陸太田市の北川が久慈川を挟んで日立市だよ。
日立市は、山と太平洋に挟まれた狭い台地に、田んぼ、畑が広がる農村地帯だったよ。
太平洋に流れ込む河川は、みんな短いよ。
山から流れた河川は、直ぐに太平洋に行きついてしまう。
その間に、小さな扇状地帯が広がる。
日立市内に入ると、太平洋と台地の境界は、20メートルの断崖になってる。
日立市から青森県辺りまでの対へいょう側はそんな地形になっている。
海と山に挟まれた狭い台地に、山から河川が流れ込み、大小の扇状地の地形を形成してる。
そんな平らな土地に民家が為政されて行った。
ただ、日立市は、山から太平洋までの距離が2キロくらいしかない。
大きな扇状地は形成されなかった。
逆に、山から流れる短い河川は、台地を深く削った。
山から流れてきた河川は、台地に流れ込んだ時に、1メートル、2メートルと周りの土を侵食して、深くなっていた。
太平洋に流れ込む頃には、20メートルくらいの段差を刻んで、海に流れ込んでいた。
常陸の国と呼ばれた昔から、その川の周りは水田とか田畑が広がってた。
太平洋にでる河口付近砂浜になっていて、そこには小さな漁村がけてせてされていた。
その頃から佐竹氏が支配してたのだろうか。
ただ、その頃から、日立鉱山は銅山として開発されてたみたいだ。
佐竹氏、水戸藩が、日立鉱山の銅山の開発を進めたみたいだが、鉱毒の発生などで、鉱山開発は軌道に乗らなかったみたいだ。
その日立鉱山が飛躍的開発されたのは、明治の後期に、事態の隆盛の波に乗って、近代化された掘削工法を取り入れてからだった。
明治維新から、日本は、富国強兵の名のもとに、突っ走て行った。
世界中を植民化してる白人達の国に、追いつけと、日本人が一丸になって走っていた。
何しろ、富国強兵しなければ、日本はシナみたいに、白人の国々の分割されてしまう。
アジア、アフリカと同じように植民地にされてしまうと言う危機感があった。
日本と言う国が無くなってしまう。
亡国の危機感が半端ではなかった。
その思いは、幕末かラ続いていた。
幕末の激動期に、維新の志士たちを動かした思想に、光圀の大日本史の水戸学があったのは、何か皮肉のようにも思える。
水戸学が、桜田門の変を起こした。
大日本史は、光圀が亡くなった後も、水戸藩の国是のようになって、江戸時代が終わって、明治の頃まで続いたと思う。
後で調べてみよう。