もやもやの原因が分かるようになってきたよ。(創作ノート 001) | eteko屋スタジオ

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勝手気ままに生きてる自己中だよ。
妄想では、苦節40年のミュージシャンなのだ。



武田邦彦♪ 伊方原発や地球温暖化自然エネルギーなどについて語る 伊方原発が事故を起こしたら!など #武田邦彦 #武田教授 #原発 #伊方原発 #愛媛県 と言う動画を聞きながら、いろいろな事をかんがえてみる。

戦後から10年くらいして、etekoは日本で生まれて日本で、今まで生きて来た。

物心ついた頃から今までずーともやもやの中で生きて来たなあ。

還暦を過ぎた今頃になってもやもやの原因が分かってきたなあ。

もやもやの原因が分かるようになったのは、インターネットの情報でいろいろな真実を自分で分かるようになってきたからだなあ。

最初のもやもやは死と言うものについて考えるようになった時だった。

それは、私が幼稚園に入る前だった。
その時には、etekoは桜川に親父が建てた新築の大きな二階建ての木造建築の家に引っ越してきた頃だった。
昭和36年の頃だった。

昭和36年とはっきり言えるのは、お袋の告別式に来てくれたKさんが、待合室にいた時に、「もう80を超えてしまった。日立市に来たのは、昭和の36年だった。あれからずーと日立市に住みついている。」と言う言葉を鮮明に覚えている。

そうか、S老人が、家の寮生になって山形県から日立製作所の国分工場に就職したのは、昭和36年だったんだと思った。
それまで、私自身が、昭和の何年に幼稚園に入園したのかは、はっきり言えなかった。

私の親父は、日立鉱山の城下町と言える、日立鉱山の大煙突の立ってる宮田川に沿って栄えた新町で米穀店で初めて繁盛していた。
新町には、日立鉱山の繁栄で、鉱山労働者の福利厚生施設の劇場、病院、供給などの施設が大正時代から建設され始めて日立市と言うか、北関東では、昭和時代までは工業都市として繁栄してた。

関東の山間部には、他にも名の通った鉱山もいくつもあるが、日立鉱山は、日立鉱山が発祥の地となる日立製作所が明治の終わりころから始まった。

最初の創業者は小平氏と言う人だった。鉱山のコンベアのモーターを見る電気技師が、日立鉱山の坑道の入り口の下の方にある小さな小屋で作業を始めた。
それが時代の流れとともに電球とかを作るようになって、町工場みたいになり、電線や電球を作り始めた。

ここで、日立製作所の創業の記憶があいまいな事に気づいた。
あぃきペディアで、いろいろ調べてみることにした。

そうだよ。
故障したと思ってたプリンターが復活したよ。

ケーズデンキに持って行ったのが良かったよ。
プリンターをPCからはずして持って行って、ケーズで電源だけ入れて、いろいろ試したのが良かったみたい。

今日は、日立鉱山の創業者と日立製作所の創業者の事と、日立市の歴史を調べてみた。

金砂神社礒出大祭礼の資料も印刷した。

朝から何やってんだろう。

今は、6時35分。

日の出前からいろいろやってる。

これは、二日間間をアルコールを抜いたからだなあ。

と言うか、買いに外に出るのが億劫なだけだっただけだけどね。ショボーン



これこれ。
自転車で転んだ時に負傷した、etekoの左手のひじの部分だなあ。
なんか、心霊写真のような雰囲気あるなあ。
負傷から3日目かなあ。
消毒液を塗り込んだだけで、ほったらかしの自然まかせ。ガーン