etekoの生オケのお稽古 その3 だす。
誰も見てくれないetekoのナマオケ練習風景の動画だよ。
そんな動画を聞きながら、ラジオ屋の創作ノートを進めてみよう。
ラジオ屋 (創作ノート その 30)
私が実家の常陸太田に復員してきた時は本当に抜け殻人間だった。
生まれてからの幼少期は、周りが農村地帯だった。
私の家がある丘の上からは、水戸光圀の隠居所のある「西山荘」の入り口が見渡せた。
その前に、山の方から流れる支流の里川が見えていた。
里川は、この地域から一直線に太平洋に流れ込んでいた。
河口付近で久慈川と交流して太平洋に流れていた。
この川が、常陸太田市と日立市の境になっていた。
常陸太田市の商店街は、旧街道の宿場道で出来たみたいだ。
もともとは、周りの農民とか、他から移ってきた承認が商いを始めた。
といっても、周りは、米を作る農村地帯だった。
それは、江戸時代の前にこの地を統治してた佐竹氏の時代から変わらなかった。
佐竹氏は、江戸事時代の国替えになって、秋田県に移ったと言う。
この時の都市伝説で、佐竹氏は、自分の側室、侍女、妾などなど、美人の女性を、みんな秋田県に連れて行ってしまったと言う。
その結果、茨城県には、ブス女だけが残ったと言うのだ。
その因果か、たたりか。茨城県はブスの産地と言うのが定説になった。
それとは逆に、「秋田美人」と言うのが、日本では当たり前のようになっている。
そんな血の常陸太田市の中心街の丘の上にある私の家からは、水戸光圀の隠居所の入り口が見渡せた。
水戸光圀の隠居氏は、「西山荘」と呼ばれていた。
ここの入り口の前には、里川の支流か゛流れている。
ここの川の両側が低い土地になっていて、両側に水田が広がっている。
西山荘の入り口は、この低い土地から始まり、ちょと下小高い丘になっている。
その丘をのほり切った所に、水戸光圀が隠居していた「西山荘」の建屋が建っている。
この「西山荘」の建屋は、戦火で焼けたりしたが、何度か再建されたみたいだ。
一様、当時のままに再建された、小さな殻ぶき屋根の家が建てられていた。
ここの「西山荘」の建屋化から、丘を登っていくと、大きな野原と先には、大きなため池が残ってた。
ここは、黄門様の厩と言うか、ミニ牧場だったらしい。
私が幼少の頃は、大きなため池と原っぱのある大きな空き地だった。
ここで、私達は、商売人組と農家組の子供達と、兵隊ごっこ、チャンバラごっこ、三角ベースな怒をやっていた。
商家組は、家がちかかった。
その子供達は、5,6人ぐらいは直ぐに集まった。
驚いたのは、農家組の子供達もいつも、5,6人は直ぐに集まってきた。
農家の子供達の家は、広い水で地帯に、ポツンぽつんと点在しているような状況だった。
それでも、遊びに直ぐに子供達が、西山荘の野原に集まってきて遊んでいた。
これは、大正の時代に入ってからの子供達の伝統のようなものだった。
日の頃の日本は、明治からの富国強制政策によって、産めよ増やせの時代だった。
子供達は、労働力なのだ。
子供を沢山作れば労働力となり自分の家を富ませてくれるのだ。
ただ、医療も発達してないから、幼児の死亡率も高かった。
二桁の子供を産んでも、半分が残ればいいような時代だった。
とにかく、農村地帯でも、子供があふれていた。
そんな子供達が始めた遊びは、兄から弟と受け継がれていった。
そんな訳で、学校の休みに、兵隊ごっこやるとか、野球をやると言えば、幼い子供達が集まってきた。
集まれない子供達は、家の農策の手伝いとかやらされていた。
そんな家の手伝いよりは、子供達で集まって遊んでる方が楽しかった。
考えてみたら、あの頃は、テレビもなかった。
娯楽と言えば、自分達で集まって遊ぶほかなかった。
子供達の遊びと言っても、こんなものしかなかった。
でも、そんな幼少期の毎日が一番楽しかった。
実家のある丘のある所からも「西山荘」のを見渡すと、春先は一面の緑だった。
里川のまわりにある水田には、5,6人の人が出て田植えをしてた。
ぽつんぼんとそうした列の人影が小さく見えた。
それは、この地域では、毎年、毎年、男百年何千年と続いてきたのだうと思った。
この川沿いの上流には、縄文時代の古跡もでてる。
その頃からから、川辺に集落を作り米を作ってたんだろうか。
そして野山に入っては、獣を捕ったりしたりしてたんだろうか。
それがいつしか、農業一本になったり、マタギになったりと分業していったのか。
定住したものの中から権力者が現れたのか。
小さな部落ができ、周りの地域と、水や領地や女を争って戦うようになる。
勝者は、権力を強大化させる。