Billy Strings at Tipitina's - SET II の 動画の音楽を聴きながら、ラジオ屋 ( 創作ノート その15 ) を 書き進めよう。
ラジオ屋 ( 創作ノート その15 )
年末の最初の闇物資の輸送は、成功だった。
桜川一家は、一回の闇物資の輸送で、大きな資金源を得た。
桜川一家は、幹部が4人いた。
幹部と言っても、戦前から桜川一家に所属していたと言う話だ。
浅吉の兄貴は、正太郎と言う名前だった。
正太郎はもともとは、常陸太田市の農家の出身だった。
それが、日立鉱山の鉱夫として、日立鉱山に就職した。
昭和の時代だった。
正太郎の親は、代々の水のみ百姓だった。
家の百姓を継ぐのか、それとも軍隊に入隊した方がいいのか迷っていた。
あの頃の日本は、第一世界大戦後のバブルだった。
戦争にの買った、金満家がタケノコの子のようにわいてきた。
そいつらは、明治以来の「富国強兵」の政策に乗ってきた財閥系の端くれだった。
その時のバブルはすさまじかった。
料亭の明かりが暗いと、何百万もの紙幣を燃やして明かりをつけたとか、いろいろなエピソードが伝わってる。
今でいう炎上商法なのか。
こんな時には、一般庶民と、金満家たちとの格差が浮き彫りになっていた。
そんな時に、シナが発信のスペイン風邪が全世界に広まった。
これは、バブルになった欧米諸国が、安い労働力のシナ人達を自国に膨大な数、労働力と入国させたためだった。
スペイン風邪と言いながら、その根源は、シナだった。
世界中で、スペイン風に何億人が感染したのだろう。
何百万人が、スペイン風邪で亡くなったんだろう。
日本では、この時には、外に出る時は、マスクを付けろと言う、宣伝のポスターがばらまかれた。
100年前に、そんなビラが政府からばら撒かれた。
それは、日本国民には、スペイン風邪対策には、マスクを付けないといけないと言う、国から強制に思えた。
世界中の経済が停滞した。
大一次界大戦で、世界の覇権を握ったアメリカも例外ではなかった。
経済の停滞は、アメリカの金融を握るウォール街から、全世界に、世界大恐慌の津波を引き起こした。
その波は世界中を飲み込んだ。
日本も例外ではなかった。
日本は、この大恐慌の津波だけでなく、関東大震災と言う未曽有の大地震に直撃された。
その為に、帝都の東京は壊滅した。
そんな時に、正太郎は、常陸太田の農村に生まれて育っていた。
農家の息子として生まれて、ずーと、コメを作って生きて死んでいくのかと、漠然と思ってた。
青春時代は、もやもやだった。
東北の方では、凶作になって、自分の娘を、女郎屋に売り飛ばしてると言う噂を聞いた。
男は、軍隊に、進んで入隊させていると言うニュースを聞いていた。
正太郎は思った。
みんな貧乏が悪いんや。
食っていけない。
そんな頃に、一山向こうの日立市の日立鉱山で、鉱夫の募集があった。
正太郎は、即、応募した。
とにかく、今の生活を変えたかったのだ。
生活を変える為には、何でもよかった。
その切っ掛けが、ひと山向こうの日立の日立鉱山にあった。
正太郎は
日立鉱山の鉱夫になった。
鉱夫の作業は、重労働だった。
日立鉱山の下の新町の鉱山会社の寮に入って通ってた。
金は稼げたが、夜は、街の飲み屋とか女郎屋に通って散財してしまった。
気が付いたら大きな謝金を抱えていた。
正太郎の人生は、どん底へと転がっていた。
ただ、奈落底まではころがらがなかった。
昔から、地元で続いてきた、桜川一家と言うヤクザに転がり込んで、踏みとどまってきた。
終戦の時には、歩くのもままならくなった親分の下に、4人の子分だけが残っていた。
終戦直後には、この幹部達には、若い子分希望にが次々と集まってきた。
なにしろ、焼野原の日立市には、職がないのだ。
若いやんちゃな若者は、ヤクザ組織に飛びついてきた。
終戦の年には、桜川一家の構成人は、20人を超えていた。
正太郎の下に付いた、チンピラの朝吉も、そんな若者の一人だった。
大晦日に近い、闇物資の輸送は上手くいった。
日立駅から常磐線で、私と、いちさん、朝吉の3人で、東京の上野駅に向かった。
それから、横浜に向かった。
横浜駅にはやみぶろかーの手下が待っていた。
外は、完璧な闇に包まれていた。
外套の明かりなのか、夜空の星のように、地上にもぽつりつと明かりが見えた。
そそこから、闇ブロカーの手配の車で、休息所に向かった。
そこは、連れ込み旅館だった。
連れ込み旅館の一室に、4人の男が集まり、深夜まで談合をしてる。
闇ブローカーの男は、元締めの手下だった。
30くらいのでっぷりした男だった。
話しをしてると、もともとは力士だったと言う。
今は引退して、この仕事をしてると言ってた。
私たちよりも4っつくらい年上だか゛、それ以上に老け顔の男が私達の前にどっかりに座っていた。
日が変わった、一時に、闇商品のある倉庫に向かう。
そこには、米軍払い下げの中古トラックが、荷物を積んで置いてある。
それを地元の日立市まで運転して届けてくれればいいと言う事だった。
現金のやり取りは、桜川一家とこっちでやり取りすると言う。
一時過ぎに、横浜港にある倉庫前の広場に、車で案内されていた。
倉庫の前には、アメリカ軍の中古のトラックが止まっていた。
荷物は積みこまれていた。
後は、いちさんがトラックを運転して、日立市まで帰るだけだった。
いちさんが、トラックのエンジンキぃーを回す。
今まで、聞いたことのない、エンジン音が、ボスポストと耳に聞こえてくる。
私達は、ボロトラックで、横浜の不当をを後にした。
都内の道路は、復旧工事も進んでないようだ、アサファルトで舗装されていたが、瓦礫も道路に散乱していた。
途切れ途切れに砂利道にもなってる。
そんな道路をライトを付けながら徐行運転で走っていった。
やっとのことで、水戸街道にたどり着いた。
ここから日立までは一本道だ。
一瞬ほっとしたが、先は長いと思ったとたんに、今までの疲れがどっと噴き出してきた。。
街灯ははほとんどついてない。
深夜になったから切ったのか、もともとついてないのか分からない。
暗闇の中をボロトラックはエンジン音の騒音を撒きちしながら走り続けた。
助手席に乗り込んだ、私と朝吉は、目を皿のようにして前方の障害物の発見に努めた。
トラックのヘッドライトに照らされるところしか見えない。
それ以外は暗闇がトラックを包んでいた。
江戸川を渡って、東京都内を出ると砂利道が続いた。
大きな町に入ると、少しは道路も舗装されていたが、街を抜けると、砂利道が続いた。
朝吉が、「こんなに振動が酷いと、居眠りしなくてすむぜ。だけどよ。心配なのは、荷台のダイナマイトだよなあ。」と疲れた声でいう。
いちさんは、道路の横にトラックを止められるスペースを見つけて休息することにした。
「おい、朝吉、カンテラの火を入れろ。荷台を点検して、それから休息だ。」
横浜を出る時に、シートをかぶった荷台は、出発前に一度点検した。
運転席の近い方に、トレイに積まれたダイナマイトの木箱の山がロープでしかっり、牙城な木製のトレイに固定されていた。その上に積まれた発破の木箱も、トレイにしっかりロープで固定してある。
500箱はあるのか、もっと積んでるのかもしれない。
発破の山は、シートで覆われて固定されていた。
トレイは荷台の三分の二は、ダイナマイトで占領されていた。
そのトレイは、トラックの荷台にしっかり固定されていた。
ロープの緩みはなかった。
後ろの空いたスペースには食料品、缶詰、化粧品オイルなんか積まれていた。
いちさんが、休息をとったのは、トラックのエンジンがエンストを起こさないか心配したからだ。
それに、発破もトラックの走行の振動の摩擦で熱を持つような気もした。
エンジンが焼けてエンストするのも心配してた。
今まで日本の軍用車しか運転したことかがなかった。
アメリカのディゼルトラックの性能については何の知識もなかった。
「これじゃあ、日立市に付くのは夜明けごろだなあ。」と、私がぼやいた。
いちさんが、暗い声で、「無事、日立まで行きつけるかもわかんないぜ。なにしろ、積み荷の大半は、発破だせ。」と、つぶやいた。
水戸に付く頃には、夜が明けてきた。
日立の新町には、10時近くに、到着した。
新町の目ぬき道路は一本しか走ってない。
大煙突の山の方から海側を走る6号国道までの狭い道路だ。
この道路に沿って、左側は山の方から宮田川がながれてる。
右側は、低い神峰山が迫ってる。
川と山に挟まれた狭い土地に道路が走り、その両側に鉱山関係者の借家屋や長屋が建っていた。
道路の両側は、昔からの商家の店舗が並んでいた。
合わせて、10軒くらいだったか。
その空き店舗になってる店を、桜川一家では、2軒確保してた。
この空き店舗は、対照的な位置で道路を挟んで立っていた。
ここが、横流し物資の一時保管場所だった。
そこに、闇物資を積んだトラックが道をふさいだ。
そこには、桜川一家の幹部や若い衆が、10人くらい、待ち構えていた。
宮田川に近い方の店舗には、発破を運び込んだ。
神峰山の方には、闇物資を運び込んだ。
この間、道路の両側は、封鎖されて、やじ馬はトラックの所には、近づけなかった。
この初荷の成功の報酬は、法外なものだった。
いちさんに現金で手渡された。
空になったトラックは、6号国道の先にある米問屋「八百虎」の駐車スペースに止めた。
戦前から操業してた米問屋だった。
ここから、東京に向けて、やみ米や農産物を運ぶ手はずになっていた。
もちろん、「八百虎」は、戦時中は軍の統制下に入っていた。
戦後のごたごたから、闇の農産物が「八百虎」に集まるようになっいてた。
日立市は日立鉱山と日立製作所で、戦前から、茨城県では、いち早く工業都市として発展してきたが、周りは、田畑の広がる農村地帯だった。
農産物は、ヤミ米をはじめ、コメ問屋の「八百虎」に集まってきた。
ところがそれを流通させる手段が、アメリカ軍によってずたずたに破壊されていた。
アメリカの日本本土に対する、爆撃、艦砲射撃は、日本の一般市民の殺戮が目的だった。
そこには、国際法も何もなかった。
「黄色い猿を消滅するぞ。!!」し言う考えしかなかった。
それは、アメリカが建国するために、アメリカ大陸の先住民のインディアン達を殺戮したのと同じ思想だった。
邪魔者は、消せ。
相手の人権、文化、などは関係ないのだ。
それが、白人なのだ。
白人が作った国が、アメリカなのだ。