ラジオ屋 (創作ノート その1) | eteko屋スタジオ

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勝手気ままに生きてる自己中だよ。
妄想では、苦節40年のミュージシャンなのだ。

私はあの日を忘れられない。

8月15日の玉音放送を聞いた日を、今でも鮮明に記憶してる。

横須賀の日本帝国海軍の兵舎に集められた兵士たちの前の教壇の机の上には、一台のラジオが置かれていた。

ラジオと言っても、今から60年前のラジオだ。

木製の箱に、アナログのダイヤルが2,3個ついている。

これで、周波数を合わせたり、ボリュウムを調整したりする。

 

この時、私は学徒出陣で通信兵の下士官をしていた。

前もって、このラジオから天皇陛下の玉音放送が流れると言う情報は知っていた。

 

そんな情報を知らない兵士達も大半だった。

その頃には、長崎、広島に新型爆弾が投下されて、多大な被害を被ていたと言う情報も流れていた。

 

ただ、情報に疎い兵士達は、神国日本が負けるわけがないと思っていた。

 

しかし、この年には、沖縄戦で戦艦大和など特攻作戦で、多くの犠牲を払ったにもかかわらず、アメリカに占領された事は、知っていた。

 

玉音放送は、雑音が多く聞き取りずらかった。

ただ、天皇陛下が、日本の一般人の犠牲をこれ以上見過ごせない。

よって、ポツダム宣言をのんで敗戦を承認すると言う事は分かった。

 

若い兵士達は号泣した。

 

午後になって、横須賀の沖合から何発かの爆発音が聞こえてきた。

それが、私には何なのか分かった。

 

それは、海の特攻兵器として開発された回天、小型船が自爆する音だった。

自爆したのは、あいつとあいつだとすぐ予想がついた。

 

ただ、特攻組とは、班が違っていたので、面識はなかったが、一二度は挨拶を交わしたことがあった。

 

その自爆音は、虚しく響いていた。

 

午後に復員の最後の命令が下った。

軍隊は解散と言う事だった。

 

あの時、私はいくつだったんだんだろう。

23歳だった。

頭が真白になってしまった。

玉音放送を聞いて即、解雇と言う事だった。

 

これから何をしていけばいいんだ。

アメリカに占領された日本で生きていけるのか?

日本の軍隊に所属していた日本人は生きていけるのか?

 

取りあえずは、故郷に帰ろう。

田舎は茨城県の常陸太田市だった。

常陸太田市と言っても、その頃は中染村だった。

中染村は、常陸太田市の中心街から久慈川に沿ってさらに山側に20キロくらい入る。

 

リュックに、兵舎に残っていた食料を供給された。

 

復員する兵士達への餞別と言う事だ。

食糧事情も悪くなっていたが、明日から兵士たちの賄は一切ないから、備蓄分を大量に放出してくれた。

そして、わずかな現金を渡された。

故郷までの帰宅代と言う事か。

でも、この日本のお金は通用す年だろうかと思った。

日本はアメリカに敗戦したのだ。

今までの日本でなくなってるのだ。

 

一週間くらいは、横浜や東京にとどまっていた。

故郷に帰る前に、故郷から出てた知人の家を訪ね歩いた。

その時の焼野原の東京も忘れられない。

遠くまで見渡せる東京の風景に驚愕した。

 

それでも、人々は元のすに帰ってきて、バラクの家を建てて住み始めていた。

何人かの知人家族にも会えたが、本人は戦死したと聞くたびに涙した。

東京を出る頃には、重かった食料のリュックも軽くなっていた。

 

常陸太田市一帯はもともと佐竹藩の城下町だった。

それが江戸時代に秋田県に領地が鞍替えとなった。

 

その時に佐竹の殿様が、側室とか美人の女の子を秋田県に連れて行ってしまい。

茨城県の北部には、ブスばかりが残されたと言う都市伝説がまことしやかに流れてる。

 

秋田美人と言う言葉は、全国になってる。

茨城県はブスの産地と言う噂もまことしやかにささやかれてる。

 

上野駅から水戸駅までは、何とか列車で戻れた。

列車は、本数が少なく、私と同じような復員兵でごった返しだった。

 

水戸からは、水郡線で常陸太田駅まで行けるが、なかなか列車が出ない。

 

駅舎は、リュクを背負った復員兵やモンペ姿の女性たちが、荷物を背負ってあふれていた。

 

そんな中、若い女の叫び声が、「何をするんです。」、凛とした美しい声だった。

女の子は、もんぺ姿に防護頭巾をかぶっていた。

女の子は二人いた。

声を上げた女性の顔は、きりっとしてた。

その傍らに、もう一人の女の子が顔を手で押さえて泣いていた。

その周りに、チンピラ風の三人の若い男がたっていた。

 

タバコをふかしながら、「いいーじゃあねぇか。」、と、女の子達をからかってる。

 

「俺たちは、戦勝国人だそ。日本はまけたんだよ。言う事聞けよ。」

 

上野から常磐線に乗った私は、列車の中で、大学にすすむまでに暮らしてた茨城弁のイントネーションにドキッとした。

若い女の子が、小声でしゃべってる茨城弁にもドキッとしてた。

学生と兵隊暮らしの、5年間くらいの間に、茨城弁は抜けてきていた。

 

でも、東京生まれの人間の間では、話してると、直ぐに田舎は何処だい。

東北の方かいと言われ続けていた。

 

男たちがどなる声は、茨城弁だけど、日本語には聞こえなかった。

こいつら、半島人だなあ。

 

私は勝手に身体が動いて、男達の前に割って入った。

「お前ら、真昼間から何をやってるんだ。

 

「てぇめぇ、兵隊上がりかよ。日本はアメリカに負けたんだ、大きな口たたくなよ。俺たちは戦勝国人だぞ、手出すなよ。」

 

一瞬、にらみ合いがつづいた。

 

先に、一人の男が、手を出して殴りつけてきた。

私は相手の手を払い、画面に一発殴りつけてやった。

こぶしにその衝撃が伝わってきた。

骨がつぶれたかもと思った。

 

男は、よろけて膝をついた。

鼻からは、鼻血が垂れていた。

鼻血をぬぐいながら、「野郎、やりやがったなあ。」、と、再び向かってきた。

それと同時に二人の男も殴り掛かってきた。

 

私とチンピラ達は乱闘になった。

 

長い時間に思えたけど、実際は、一分くらいだったんだろう。

私は、ぼこぼこにされ血反吐を吐きながら、駅舎の床に倒れ込んだ。

 

私たちの周りには、復員兵や一般人のやじ馬が周りを円形に囲んでいた。

チンピラの三人は、再び、女の子達に絡みだした。

 

その瞬間、やじ馬の輪の中から、ずんぐりした若い男が、とびでて、チンピラ三人を次々に殴り倒した。

「てめぇら、それでも日本人かあ、こんなご時世に、」、低いどすの利いた声だった。

 

三人のチンピラは、飛び出してきた男に歯向かう気力は失せていた。

後から出てきた男の力強さに、完全に太刀打ちできないのを悟らされていた。

 

男達は、肩を寄せ合いながら、やじ馬の輪から出て行った。

 

やじ馬の輪からは、みんな小さな拍手を送っていた。

 

私は、駅のベンチに座らされて、女の子、二人に介抱されていた。

顔の鼻血を手拭いでふかれた。

「大丈夫ですか。私達の為に迷惑かけてすみません。」

私には、その言葉というか、音声が一番の気付けになった。

 

女の子達の後ろには、チンピラ達を倒してくれたずんぐりした男が立っていた。

私が介抱される姿を黙って見ていた。

 

男は、陸軍帰りの復員兵だと分かった。

親のいる日立市まで帰るのだと言ってた。

 

ところが、日立市は終戦間際の艦砲射撃になってて水戸で足止めを食って、野宿してたと言ってた。

水戸から列車が出ると聞いたので駅に来たらこのありさまだよ。

 

日立市は、戦前から鉱業で栄えてる街だった。

そこから、今では大企業?の電器メーカーの日立製作所が立ち上がった。

日立製作所の創業者は、鉱山の電器技師だと言う事だ。

電器技師と言っても、コンベアのモーターとかをメンテランスするような電気技師だったみたい。

 

日立鉱山の坑道の入り口の下に、最初は2人くらいで、町工場程度の作業所から始まり、それが大きく発展していった。

そのそばには、宮田川と言う川が流れている。

この川は、日立鉱山が廃坑するまで、鉱石の洗浄水の泥水を流し続けていた。

その為、昭和の終わりころまで、宮田川がいつもセメント色の水が流れていた。

宮田川は、日立鉱山の坑道から2キロも下れば、太平洋にたどり着いてしまう。

 

この川はにそって、日立製作所の電気製品を作る工場が発展していった。

日立製作所が大発展したのは、大正時代の関東大震災によってだった。

関東大震災によって、東京にある大手の電機メーカーは壊滅した。

 

北関東の茨城県の県北ちくにある日立製作所は被災を免れた。

 

それによって、日立製作所は大躍進した。

戦時中は、日立製作所の工場は、軍需工場に転用された。

その為に、終戦間際に、艦砲射撃で、工場群が焼野原にされた。

 

日立駅は日立製作所の海岸工場の側だ。

レールが工場の前を海側に走ってる。

この工場を標的に艦砲射撃を受けたら、常磐線の駅もレールもひとたまりないよ。

 

ずんぐりした男は、名前は、「いち」だと言った。

みんなからは、「いち」さんと呼ばれてる。

「しかしなあ、あの半島の奴らは何て奴らだよ。日本の敗戦に付け込んで、戦勝国だってぬかしやがる。半島は日本じゃあないの。一緒にアメリカと戦ってきたのにね。みごとな手のひら返しだよ。お国の為にたたかって亡くなった人々か゛うかばれないぜ。」

 

私もうなづいた。

後でわかったことだけど、「いちさん」の本名は、「一龍」って言う。

親父が、福島の会津生まれて゛学があったみたい。

子供達には、龍の漢字がはいる名前を付けていた。

男の子は、「竜幸」、女の子は「竜子」だったりする。

 

二人の女の人は、姉妹だと言う、姓は宮下と言う。

姉の方が美子、三女の妹が、「清美」と言う名を教えてくれた。

美子さんは、既婚者だった。

若い夫が、沖縄で特攻に参加したと言う。

その情報を知ろうと、県庁を訪れたらしい。

二人の実家は、常陸太田市の中染村だった。

 

実家は当然農家だった。

ひとやま超えた日立市に日立製作所の会社員だった夫の元に嫁いだ。

結婚してからすぐに、夫の元に赤紙が届いた。

 

短い新婚生活の後に、夫を、日立駅から日の丸で送った。

一人暮らしになった、美子の社宅に、実家の中染村から、三女の清美が同居するようになった。

ちょうど、その時に清美は、女子高に通うためだった。

でも、清美は女子高に入学と同時に、女子挺身隊員として、日立製作所の軍事工場に配属された。

 

そこで、アメリカ軍の艦砲射撃を受けたみたい。

同僚で亡くなった女子高生もいたみたいだ。

清美さんは、息子に女子挺身隊んで日立製作所の軍需工場に派遣されていたと言うのは死ぬまで一度も語らなかった。

清美さんの弟が、清美さんは戦時中は女子挺身隊員で派遣されてて勉強は何もできなかったと言ってた。

 

清美さんの息子は、その話を聞いてびっくりしてた。

清美さんは、家では、戦時中の事は、息子に何も語らなかった。

ただ行ってたのは、「半島とはかかあっちゃあいけないよ。」

と言う言葉だった。

 

水戸駅から4人は同じ列車に乗って、日立市方面に向かった。

私は、直ぐに隣の勝田駅だったので、そこで降りた。

この間、「いちさ」んとは、チビ太鉛筆で藁紙に住所を書いて再会を約束した。

 

勝田駅のホームから、三人の乗ってる列車をずーと見送ってた。

後備列車のお尻が視線から消えるまで見送ていた。

 

 

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草創期[編集]

 

戦中と終戦直後の状況[編集]

日中戦争太平洋戦争第二次世界大戦)の勃発に伴い、鉄道は戦時体制に組み込まれ、前述した産業用鉄道の国有化や私鉄の統合の他にも、「不要不急の旅行」を抑制する動きが目立つようになっていく。満州・中国方面への視察、伊勢神宮橿原神宮などといった「皇国史観教育」・「武運長久祈願」による聖地参拝旅行といった例外も当初は存在したが、軍需輸送を優先させるために国鉄においては、1943年(昭和18年)2月以降は旅客列車の削減が行われるようになり、1944年(昭和19年)には特急列車・一等車・食堂車・寝台車が全廃された。このことは、戦況の悪化が総力戦体制を、それまで見逃されていた特権階級(高級将校や財界人など)にも次第に強いるようになっていったことを示すものでもあった。

サイパン島陥落以後、鉄道施設に対する空襲も本格化するようになり、駅や車両に甚大な被害が出たり、走行中の列車が艦載機の攻撃を受け、死者を出す例も発生した(湯の花トンネル列車銃撃事件など)。ただ、破壊された後に復旧が困難になる鉄橋に関しては、何故か大きな攻撃を受けることがなかった。とはいえ、沖縄県の鉄道のように地上戦の結果、完全に破壊される所も出るなど、日本の鉄道網は甚大な被害を受けた。しかし復旧へ向けての関係者の取り組みは早く、東京大空襲の翌日には一部の国電が動き、広島原爆投下の2日後には山陽本線、3日後には広島電鉄の一部区間が営業を再開したほどである。そして1945年(昭和20年)8月15日という玉音放送があった日も鉄道の運行は続けられ、国民を立ち直らせるのに一役買ったとも言われている。また、進駐してきたアメリカ軍が当初日本の鉄道は運行不可能になっていると予想し、ディーゼル機関車貨車フィリピン経由で輸入することにしていたが、鉄道が曲がりなりにも動いているのを見て驚き、それを中止させたという逸話も残っている。

空襲の他、戦後には敗戦のショックに伴う乗客の道徳荒廃等により、多くの設備・車両が破壊されたが、資材や労働力の不足により復興は遅々として進まなかった。しかし、復員列車や買い出し列車など旅客の需要は急増し、その一方で石炭不足から列車は戦時中より削減された。その結果、旅客需要に答えるために過度の運行をせざるを得ず、鉄道事故も相次いだ。だがそのような下でも、進駐してきた連合国軍に関する輸送は最優先で行う必要があり、当時の日本人には縁がないほど豪華な設備を備えた連合軍専用列車が、全国で運行されるようにもなった。

私鉄の統合と国鉄への買収[編集]

私鉄統合の機運は昭和恐慌による経営悪化が顕著となった頃からあり、1935年(昭和10年)に名岐鉄道と愛知電気鉄道とが合併して誕生した名古屋鉄道のように自主的な企業合併も進められていた。1938年(昭和13年)には乱立する交通事業者の統合を推進する陸上交通事業調整法が制定され、同法により東京・大阪・富山・香川・福岡の交通ブロック化が図られた。この時の合併で帝都高速度交通営団東京急行電鉄大東急)、京阪神急行電鉄近畿日本鉄道富山地方鉄道高松琴平電気鉄道西日本鉄道などが誕生した。

陸上交通事業調整法はあくまで平時立法による交通政策であったが、同法施行前より日本は戦時体制に突入しており、私鉄の統合政策も戦時体制としての側面が次第に濃くなっていった。果たして1940年(昭和15年)にはより強制力のある陸運統制令が戦時勅令として制定され、政府による私鉄事業の統制が本格化した。翌年の改正によって事業者の統合や国有化、輸送優先度の設定や資材転用などを政府が命令できるようになり、私鉄は軍需工場への通勤や資材の運搬手段として国家総動員体制に組み込まれていった。

また、国策輸送に必要な路線を有する会社は国による強制買収の対象にされ、前述の阪和電気鉄道(同社は1940年に南海鉄道に統合されていたため、この時は同社の山手線となっていた)や中国鉄道(現在の津山線)などといった会社の保有していた路線が、国鉄のそれに組み込まれることになった。豊川鉄道鳳来寺鉄道三信鉄道伊那電気鉄道の4社によって運営されていた路線が買収によって一本化され、飯田線となったのもこの時である。この路線は図らずも、終戦前の国鉄においては最も長い電化区間となった。

軍事関連輸送の強化[編集]

国家の総力を挙げて戦争を遂行するため、膨大な原材料が軍需工場に運ばれ、武器や食料などが基地や戦地へ送られた。この大量の貨物を運搬するため、国鉄では様々な対策がおこなわれた。

弾丸列車計画に基づいて工事を始めた日本坂トンネル・新東山トンネルは、計画中断後も工事が継続され、東海道本線の輸送力強化のために使用された。さらに関ヶ原近辺の下り線も1943年に勾配改善工事が完了し、20 - 25パーミルの上り坂が10パーミルとなった。本州と九州を線路で結ぶ関門トンネルは1936年に着工され、陸軍の強い後押しにより戦争中も工事が続けられて1942年に1線、1944年に複線化が完了した。

名古屋地区では先述した名古屋鉄道に鉄道事業者が集約されていったが、路線は名古屋市内の新名古屋神宮前間で分断されていた。名古屋地区は零戦などを製造していた三菱などの軍需工場が集中しており、工員輸送の便を図るために戦争中の1944年に上記区間を開通させた。

国鉄の旅客列車はスピードダウンが目立つようになった。1943年2月頃より、軍事貨物列車を優先させるため、長距離の特急や急行列車は順次削減すると同時に、貨物列車のスピードに合わせて速度を低下させるダイヤ改正が行われた。1944年には特急列車が全廃され、1等車・寝台車・食堂車も廃止された。輸送量の増大に対して、1943年にはD51形を上回る強力な貨物用機関車D52形が完成し、D51形と共に大量生産された。1944年からは、大都市圏の軍需工場通勤用として片側4扉の63形電車が生産された。戦争末期に作られたこれらの車輌は「戦時設計車」と呼ばれ、部品の簡略化、安全設備の不備、生産工程の簡易化など、いわば“粗製濫造”相当の代物であった。

設備の疲弊[編集]

鉄道の線路や車輌は、一定の期間に定期的に整備を行わないと機能が低下する。整備には「人手」・「資材」・「資金」が必要だが、戦争中期以後男性は軍隊に招集されて人手が減り、資材も不足していた。また国鉄の収益の大部分は「臨時軍事費」という名目で国に徴収された一方で、配分された資材はまず貨物用機関車の大増産などに振り向けられていた。結果として、保有車両・地上設備に対しての必要な整備は満足にできていなかった[13]

後年の藤井松太郎総裁時代、国鉄技師長となった瀧山養は、次のように述べている。

国鉄は戦時中の急テンポの軍需増産と海送からの転移により、戦前(以下昭和十一年度を指す)の二・六倍の貨物輸送と二・九倍の旅客輸送を強制されたが、これに必要な資材が確保されなかったので、車両と施設とを酷使せざるを得なかった。例えば、車両の保守用鋼材は全体で七割以下に削減されながら、逆に二割の過積を認め、軌条の如きは漸減して戦争末期には平年の一割以下の補充しかできない状態であった。— 瀧山養(当時国鉄総裁室審議室調査役)「国鉄の現状と悩み真相を訴える」『世界』1954年7月[14]

戦争による被害[編集]

日本を爆撃するB29

酷使や補修の問題に加えて、大きな打撃を与えたのが瀧山も触れている戦災による車両や設備そのもの破壊である。

この戦争により鉄道が最初に直接被害を受けたのは、1942年4月18日にアメリカ海軍の航空母艦ホーネットから発進した爆撃機B-25による、日本初空襲であるとされる。国鉄の記録では、この日常磐線金町駅で爆弾により信号機に被害があり、4名が軽傷を負ったとある。1944年6月からは中国大陸から飛来したB-29爆撃機による北九州地区の爆撃、同年11月からはサイパン島を基地とするB-29爆撃機による主要都市に対する空襲が始まり、被害が増大した。1945年2月16日以後、敏捷な空母搭載機による空襲が始まったが、鉄道関連施設が直接攻撃される場合も多く、青函連絡船が壊滅するなど被害は部分的ではあるが甚大であった。しかし、サイパン島から爆撃目標はあまりに遠く、昼間精密爆撃による直接攻撃では、爆撃成果があまり上がらなかったため、周辺地域を爆撃して、鉄道網に類焼させる作戦に切り替えた、しかしこれも失敗したため、職員の住む住宅地を焼失させ、鉄道網の操業を止める夜間殺戮爆撃無差別絨毯爆撃)へ作戦を変更した。

また終戦の直前には原子爆弾広島長崎に投下され、両市周辺の鉄道網は大損害を受けた。広島駅では職員926名中死者11名、重軽傷者201名を出している。一方、広島では被爆当日から救難列車が仕立てられ、翌日の7日宇品線が、8日に山陽本線が開通した。長崎でも被爆直後から救難列車が仕立てられ、爆心地近くまで進入して被災者を収容し諫早や佐世保の軍病院に送り込んだ。鉄道施設の多くは爆心地から比較的はなれていたため、鉄道網の壊滅は免れた。広島電鉄では被爆直後より生き残った職員(女子職員が多くを占めていた)による列車運行が再開された。

復旧した長崎本線1946年米国戦略爆撃調査団撮影の映像より)

太平洋戦争による国鉄車両の損害[15]
項目 損害計 廃車 中破 小破 被害率
(%)[16]
機関車 891 17 279 595 14
客車 2228 913 461 854 19
電車 563 361 36 166 26
貨車 9557 2190 7367 8
合計 13239 10

このように、連合軍の戦略爆撃は鉄道網を直接攻撃する作戦を継続することは無く、攻撃目標は、一般の木造住宅街とそこに住む幼老婦女子などの、戦災弱者に向かうことになる。結果、日本の鉄道網は戦争を生き残り、戦後の復興に多大の貢献をした。

1947年に運輸省鉄道総局が発表した『国有鉄道の現状』では、戦争による被害は建物が20%、機関車が14%、電車が26%、等で被害総額18億円に達した。この金額は国鉄の昭和19年 - 20年度の2年間の全収入に相当する膨大なものであった。しかし、日本の実効支配が及ばなくなった樺太は別として、終戦後に満州ドイツで見られたようなソ連軍による略奪同然の線路を含む設備の持ち去りは無かった。

1966年2月26日、参議院運輸委員会において公明党の浅井議員は当時の日本国有鉄道総裁石田礼助に対し「国鉄は戦争で壊滅的打撃を受けたが、これに対して、充分な復興措置が取られたのか」と質問した。青木慶一は「壊滅的打撃を受けた事実がない」「日本国鉄の輸送力が貧弱である現状を、その原因が米軍乃至米国に在ると称して、罪を米人に転嫁しようとしている」と批判し、ドイツ軍による組織的な輸送網の要点攻撃の対象になった国々の事例を示した後、(被害は)「ポーランドフランスの足許にも及ばない」と述べている[15]

戦災、補修不備といった要因を加重していくと、終戦後間も無い状況としては下記のような状態である旨が、国鉄より説明されている。

終戦後、国鉄は戦災の応急復旧に注力し、これを達成したが、資産の戦前の状態へ復元は、わが国産業の立上がりの遅れのため捗らず、ようやく産業が復興した頃には、国鉄は公共企業体として資金的に見放されたまま今日に至っているので、緊急取換えを要する資産が今なお約一五百億円残っている。代表的なものとして、脱線の主因をなす衰耗貨車約一万五千両(全体の一・五割)と折損の危険を孕む三十三万の減耗疲労した軌条を挙げることができる。
運転事故は終戦後激増して一時は戦前の八倍に達したが、近来四倍程度に減少した。— 瀧山養(当時国鉄総裁室審議室調査役)「国鉄の現状と悩み真相を訴える」『世界』1954年7月[14]

太平洋戦争による私鉄車両の損害(150社計)[15]
項目 損害計 廃車 中破 小破
機関車 50 23 10 17
客車 54 35 8 11
電車 2133 1556 220 357
貨車 441 271 99 71
合計 2678

私鉄での損害は表から分かるように、専ら電車に集中している。

海外の旧植民地、占領地からの引揚者が数百万人にも達し、私鉄の活動の場であった都市部にも大量に流入した一方で、このような損害を受けていたため、通勤・通学輸送のための輸送力は極度に逼迫した(この点は国鉄も同傾向であった)。その後、朝鮮戦争勃発から占領の終了の頃になると終戦直後のような混乱は一息つくものの、数年後には高度経済成長が始まり、農村部から大都市への人口移動が加速されていく。このため、大都市の旅客輸送は再び逼迫の度を増していくことになるのである。

復興から躍進の時代[編集]

戦後の混乱と占領軍による鉄道管理[編集]

日暮里駅4番線での終戦後の買い出し列車(1946年、影山光洋撮影)

1945年8月14日、日本はポツダム宣言受諾を決定し、中立国を通じて連合国側へ通告した。この日以後 陸海軍は武装を解除される。鉄道は軍需輸送の役目を終えたが、休む暇なく武装解除された多数の軍人や、都市への空襲を避けて田舎へ疎開していた人たちを故郷へ送り返す役目が始まった。終戦直後の大都市は食料等の物資が極度に不足し、人々は鉄道を使って郊外へ買出しに出かけた。しかし戦時中に充分なメンテナンスをされずに酷使された施設や車両、人員によって運転された列車は、常時には考えられないような事故を多発し多数の乗客が犠牲になった。

その他東海道本線醒ヶ井駅付近を走行中のD52形蒸気機関車のボイラーが突然爆発した事故や、古いブレーキホースが破損して発生した近鉄生駒トンネルノーブレーキ事故(死者49名)などの大事故が続発した。また戦後に蒸気機関車の燃料である石炭が極度に不足したため、乗客は増えているのに1947年まで度々列車の大幅な削減が実行された。その結果 旅客車は大混雑した。当時の写真では客車のデッキにぶら下がったり貨車の上に載った乗客が写っている。そのような状況下でアメリカ軍が日本に進駐し、鉄道全般について占領軍による管理が始まった。

D52のボイラーを使って制作されたC62

占領軍の方針として鉄道の修復を優先し新車の製造を抑えた。そこで不足している旅客用蒸気機関車を賄うため、戦時中に大量生産され戦後は余り気味となった貨物用機関車を改造した機関車が製造された(例D51形C61形D52形C62形)。

進駐軍専用列車[編集]

1945年8月に進駐してきたアメリカ第八軍の第三鉄道輸送司令部が、日本の鉄道全般を管理した。司令部は全国各地の国鉄や私鉄の駅に Railway Transportatin Office (RTO) を置き、日本側に指示を出した。国鉄では状態の良い客車を集めて特別に整備し進駐軍専用に指定し、これら使用して東京から全国各地に向かって専用の定期列車を走らせた。東京や大阪の電車区間では国鉄・私鉄ともに1両から半車(1両の半分)を進駐軍専用に使用した。進駐軍指定車は窓下に白い帯を描いて日本人の乗る車両と区別した。RTOによる管理は1952年のサンフランシスコ対日講和条約発効まで継続した。

連合軍専用列車も参照。

大私鉄の分割と日本国有鉄道の発足[編集]

戦後GHQの指示により財閥解体が行われたが、鉄道分野でもこの流れに乗って戦時中に大合併した私鉄が1947年から分割され始めた。東京地区では大東急東京急行電鉄小田急電鉄京浜急行電鉄京王帝都電鉄の4社に分かれた。大阪地区では近畿日本鉄道から南海電気鉄道が分離し、京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が分かれた。一方、名古屋鉄道西日本鉄道は戦前から戦中にかけて多数の私鉄が合併してできた会社だが、戦後もそのままの形が受け継がれた。

国鉄は鉄道省が直接管轄していたが、運輸通信省運輸省を経て1949年4月1日に運輸大臣が監督権を有する公共企業体「日本国有鉄道となった。この結果、国鉄の職員に対しては「国家公務員法」ではなく「公共企業体等労働基本法」が適用されることになる。この中途半端な体制は「一応企業の形になっているため国庫からの補助を受けにくいが、政治家の介入は阻めない」ものであり、将来大幅な赤字を生む禍根となった。同じ年に国鉄は行政機関職員定員法により当時598,157人いた職員を503,072人に減らすことが求められた。9万5千人に及ぶ人員整理(いわゆる首切り)は困難をきわめ、1回目の免職者が発表された7月3日の3日後の6日に当時の下山総裁が常磐線北千住駅綾瀬駅の間で死体となって発見される事件(下山事件)に繋がった。下山総裁の死因については、当時から自殺説と他殺説があり、真相はいまだに謎である。不明瞭な事件は続いて、7月15日には三鷹事件(死者6名)、8月16日には松川事件(死者3名)が起こった。いずれも列車事故であるが、人為的な犯罪の可能性が高いとみなされ、この三事件を合わせて国鉄三大ミステリー事件と呼ばれている。