橋本忍/ 黒澤明 7人の侍 の動画を見ながら小説ノートみたいなものをかいてみる。 | eteko屋スタジオ

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勝手気ままに生きてる自己中だよ。
妄想では、苦節40年のミュージシャンなのだ。



K君の死を知った。

私は、新聞は取ってないけど、K君の孤独死の記事を、テレビのニュースで知った。

K君の孤独死は、衝撃的なものだったので、テレビのワイドショーが取り上げた。

死後、半年は、あのボロ屋敷の一室で、白骨化の死体で見つかった。

K君のボロ屋敷は、とにかく大きい木造の二階建ての家だよ。

あの家にも、50を過ぎたころから
何度か行ったよ。

その前の、20代、30代も何度か、行ってたなあ。


私がK君と知り合ったのは、日立エンジニアリング((株))と言う、日立製作所の子会社みたいな会社だった。

今から、40年前だなあ。

今だと分かるんだけど、私が日立製作所の会社に潜り込めたのも、今の派遣社員と言うのが始まる大分前だよ。

1980年代に、日立製作所に潜りこたよ。

大学は日大の経済学部だったよ。

あの頃は、就職難だったなあ。

でも、私は取りあえず、東京のビール会社に就職できたよ。

それでも、一年も続かなかったよ、

地元の、日立市に帰ることにした。

そしたら、雇ってくれる会社があったよ。

入社試験とかあつたけど、即、採用になったよ。

今だと、そのからくりが分るよ。

誰でも入社できたよ。

日立製作所の子会社のその孫会社みたいな人材派遣会社みたいのが、出来てた頃だよ。

日立市にある日立製作所で、部長とか、工場長クラスになった人間が、社長になって、人材派遣会社の会社を作るよ。

そこに集められた人員は、日立製作所の工場の補助要員として送り込まれるよ。

竹中とか小泉が始めた派遣社員を日立製作所は、10年以上前からやってたよ。

この会社は、日立製作所の協力会社とか呼ばれ、日立製作所の工場の補助要員として送りこまれてたよ。

そんな頃に私は、茨城エンジニアリングと言う会社に潜り込めたよ。

そして、日立エンジニアリングの電子工場のソフト部門に配属されたよ。

新人の時は何をやってるんだか分らなかった。

大型CADのソフト開発だったみたい。

まだ、パソコンもワープロもなかった時代だよ。

日立製作所で使ってるCADのプログラムのソフトの開発って名目になってた。

言語は、フォートランだったけど、何をやってるのかは、自分は分からなかった。

チームは、10人くらいでやってた。

10人と言っても、最初は、4,5人だったよ。

1年ごとに、直ぐに新人が補強されて、10人くらいにはなったよ。

私の担当は、CADだったけど、その他のソフトの部門もあったから、部門全体で、50名以上はいたなあ。

この時に、私の所属した部門は、応用システムと言われてた。
会社では、「応シ」と言われてた。

この「応シ部」は、電子工場の建屋の2階のフロアにあった。
その反対側に、「電子設部」があった。

ここは、遠方監視装置と言う製品を設計する部門だった。

この「電子設部」が、私達の部門より倍くらいの人員を擁してた。

この部門が、日立エンジニアリングの屋台骨だった。

ここが稼いで、日立エンジニアリングを引っ張ってきた。

ここの部門の売り上げによって、私のいた「応シ」部の売り上げも成り立っていたくらいだよ。

電子設部の作る製品は、「遠方監視制御装置」と言われる製品だ。

この製品は、電力会社、道路公団、JR、ダム、利水、水利の公共事業に入り込む製品だよ。

一般の人は、ほとんど知らない製品だよ。

でも、人の見てないところで、いろいろなデータを収集して、その結果で、ゲイトを開閉したり、いろんな表示、操作するような器械だよ。

そんな装置を設計してるのが隣の、「電子設部」だったよ。

この部署には、隣にI.C.Cと言う、設計の補助会社がいたよ。
20人くらいはいたかなあ。

それが、みんな、高卒くらいの女の子ばかりだったよ。

電子工場には、女の人は、一割くらいだったよ。

「応シ部」なんか、女子は事務員の女の子だけだから、1パーセントくらいしかいなかったなあ。

50人に対して、5,6人かなあ。

でも、「電子設部」は、20人くらいは女の子がいたなあ。びっくり