”あれから23年” | eteko屋スタジオ

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勝手気ままに生きてる自己中だよ。
妄想では、苦節40年のミュージシャンなのだ。

読者さんになってるブログに遊びに行ったら、この記事が出てたんでリブログしちゃいました。

あれから23年という事は耳にしてたけどね。

 

あれから23年なんだ。

 

あの時の事の記憶が少しよみがえったよ。

etekoは、この時は地元の日立市に帰ってたよ。

だから阪神大震災に被災したわけでもないよ。

 

ただ、神戸には、大学時代の音楽サークルで仲良くなった、先輩がいたよ。

この先輩は、Tさんと言うよ。

 

これが、けた外れのボンボンだったよ。

一年先輩だけど、何故かetekoよりは年下だったよ。

etekoは三流大学にたどり着くまでに、浪人の憂き目にあってたからね。

 

音楽サークルの先輩に、Tさんがいることは認識してたけど、1年生の時は、あんまり口もきいたことなかったよ。

etekoが2年生になって、落としたドイツ語の補修の教室に行ったらTさんがいた。

 

Tさんも、ドイツ語を落としてたみたい。

隣同士の席にすわって、それからは仲良くなったよ。

 

Tさんが、けた外れのお坊ちゃまかと言うと、凄すぎるよ。

etekoが1年生で、音楽サークルに入った時に、Tさんは、ロックバンドのボーカルをやってたよ。

Tさんは、2年生で、バンドのバックは3年生の人達がやってた。

 

この頃のバンドは、みんなコピーバンドだよ。

Tさんが、ジョニBグッドを歌ってるのは、覚えてるよ。

 

大学は水道橋にあったよ。

大学の校舎は、水道橋駅の東京ドームとは反対側にいくつも分散してあったよ。

 

その一つの校舎、三号館?だったかなあ。

そこの地下一階に食堂があって、その周りのスペースにサークルの部室が割り当ててあったよ。

etekoの入った音楽サークルは、広いスペースを確保してたよ。

ここに先輩たちが、遮音板の板をはったりして、ちょっとした音楽スタジオになってたよ。

ここで、シングアウトの練習とか、週に2かぃってたよ。

 

ここには、ドラムセットやアンプが置いてあって、大音量で練習できたよ。

 

ボーカル用のPAのシステムもそろってたよ。

練習の時には、20人くらいが集合して、シングアウトの練習をしてたよ。

 

それ以外の時間は、2時間単位で、サークル内のバンドの練習ができるようになってた。

ただ、空調はなかったなあ。

夏はサウナで、冬は冷凍庫だったなあ。

 

 

大学を離れてから、T先輩は、地元の神戸に帰った。

その後は、年賀状のやり取りをしてたよ。

 

そしたら、23年前に神戸の大震災がやってきたんだなあ。

年賀状で、T先輩の近況は知ってたけど、この地震でどうなったのかと思って、毎日、毎日、電話を入れたよ。

でも、2,3日は繋がらなかったよ。

 

やっと繋がって、状況を聞いたら、「辛うじて、生きてる。」、だって。

 

ただ、住んでたマンション?の部屋はめちゅくちゃだってさあ。

お店を出してたCDショップも、めちゃくちゃだって言ってた。

 

 

そんな会話を何度かした覚えがあるなあ。

 

でも、それ以降の年賀状は、出しても、etekoのとこに戻ってきたよ。

 

あれから音信普通だなあ。

 

でも、震災以降も元気で生きてるのは確かだよ。

 

 

T先輩が、どれほどけた外れのボンボンかと言うと、いろいろな逸話があるよ。

 

ひとつは、バンド仲間の先輩が、「お前の親父が長者番付に乗ってたぞ。」、ってからかったよ。

 

昔は、長者番付って言うのが、新聞に大々的に報道されてたよ。

 

その年の新聞には、神戸出身のTさんと同じ苗字の人が載ってたみたい。

 

バンド仲間は、Tさんの地元が神戸という事は知ってたよ。

 

長者番付にTさんと同じ苗字の人を見つけてからかったよ。

 

そしたら、T先輩が曰く、「あれは家の親父じゃあなくて、家の爺さんだよ。」、だってさあ。

 

etekoが所属した音楽サークルで、財閥の御曹司に出会ったよ。

それも、ドイツ語の学科を落とした事で親密になっちゃったよ。

 

この頃に知ったんだけど、Tさんの爺さんは、あの神戸製鋼の会長だった。

そして、親父は三和銀行の重役だってさあ。

 

T先輩との思い出話しもいろいろよみがえったなあ。

 

 

そのエピソードを語ったら、芥川、直木賞も夢じゃないなあ。

 

ネタが面白すぎるよ。

 

残念なのは、今のetekoに、文章力がないって事だね。

 

ギターと同じように、なるべく文章を書く練習をしよう。

 

頑張れetekoだよ。