etekoは時代に流されてるだけなんだなあ。みんなビンボのせいだよ。その2 | eteko屋スタジオ

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勝手気ままに生きてる自己中だよ。
妄想では、苦節40年のミュージシャンなのだ。

 

 

 

 

 

ますます、アップしてある写真は記事と何の関係もないなあ。

 

これは、昨日、田尻の家に行った時に、ピク関連をやった時に撮った写真だよ。

 

前の記事で親戚の悔みに、7日に千葉の君津に行かないといけないって書いたよ。

千葉の親戚はもともと、茨城県北部の常磐炭鉱で職を得てたよ。

 

それが斜陽で、千葉の君津の新日鉄系の会社の就職を斡旋されたよ。

それで、千葉の君津の方に移り住んだんだなあ。

 

 

 

そんな事を考えると、etekoだって、親父が日立市に戻ってこなければ生まれてなかったよ。

 

親父の両親は、福島の会津の出だよ。

だから、父方の親戚はみんな福島の会津だよ。

 

爺さんは頭が良かったらしい。

田舎のインテリみたいな人だったらしい。

ばあーさんと結婚して、親父とその姉さんをもうけたみたい。

 

その頃は、米作の農家だったみたい。

本家から分家してみたいなあ。

爺さんの代の、兄弟関係は、etekoには分からないよ。

 

その上が武家だったのかも分からないよ。

 

親父がよく口にしてたのは、K家っていうのは、平家が都落ちして、福島の会津に住み着いた家系の末柄だと言ってた。

 

それは、機会があれば調べてみよう。ニコニコ

 

親父の爺さんは、親父が成人になる前に、ブラジル移住を決意したみたい。

それで、自分の田畑、財産を売り払って、神戸に行ったみたい。

ところが、移民の資格の最終試験?にひっかかって、移住は果たせなかったみたいだ。

 

その後、爺さん夫婦は、故郷にも帰れなかったみたい。

福島の会津に近いと言えば近い、茨城県の日立市まで戻ってきて、そこに住み着いたよ。

その頃の日立は銅山とか日立製作所で景気がよかったみたいだよ。

 

爺さんは、戦後近くは、食糧倉庫の管理の職についてたみたいだ。

戦後はいち早く、米穀商の権利?を得て、日立市の弁天町で米屋を開業したみたいだ。

 

爺さんが神戸行った時には、叔父と姉は親戚にあづけられたみたい。

ブラジルで一旗揚げたら迎えにくるよって言ってたみたいだけどね。

 

姉はその頃、もう嫁に行ってたのか、分からないけど若死にしたみたい。

親父も、成人前に、少年兵志願で軍隊に入ったみたいだ。

 

終戦後に軍隊に行ってた、親父は爺さんが住んでる日立市に戻って来たよ。

 

そこで爺さんの米屋を手伝ってたけど、すぐに日立鉱山のすぐ下の町に、米屋を開業して独立したみたい。

 

そうなんだよね。

爺さんが、ブラジル移住を決断しなければ、etekoは福島の会津あたりの田舎者の一人だったよ。

 

 

 

 

 

結局、幕末辺りから、日本では生まれた土地にずーといる事ってあんまりないよ。

 

みんな、経済的な理由で移動するんだなあ。

移動する事に、なんの制約も無くなったんだね。

 

ただ、移動した時のリスクとかみんな考えるよ。

 

今よりはましになるって思うんだね。

 

そう、思える事が幸せなのかもね。

 

結果はどうにしろさあ、そう思える事がまだ幸せだよ。

 

何も考えたくなることが結局は終わりだよ。