りりィ―さんの訃報の事を書いたら、大学時代のいろいろな事を思い出したよ。
動画の「ぬかるみ」って曲は、その大学時代にetekoが作詞・作曲したオリジナル曲だよ。
もう40年くらい前なんだね。

この曲は、りりィ―さんの音楽事務所に潜り込んで業界人になったKA君とのある日の体験がもとになってるよ。
「ぬかるみ」は、大学の4年の時に作ったよ。
その時は、音楽サークルは所属しているものの引退だよ。
卒業後の就職活動に備えてって言うのもあるんだろうね。
だから、大学の音楽サークル活動してたのは3年間だけだね。
この間は自主コンサート、学際に向けての練習や春、秋の合宿なんかの活動をしてた。
4年生になると音楽サークルでは、OBあつかいだよ。
そんなもんで、4年生の時に作ったオリジナル曲を人前で発表できなかったよ。
地元に帰って社会人になったetekoは、社会人バンドに入ったりして、2年間ぐらいは、音楽活動してたけど、オリジナル曲を発表するようなバンドじゃなかったよ。
そうこうしてる内に、会社の仕事がブラック企業以上に忙しくなっちゃったよ。
ギターも弾けなくなっちゃったよ。
それから30年近く、ギターも弾かなくなったよ。
もちろん、音楽活動も休眠だよ。
そんな会社を自主リストラしてから暇になったんで、再びギターの練習を始めたよ。
その内に大学時代に作ったオリジナル曲を形にしたいって言う思いが募って来たよ。
そして、自主製作のCD、DVDを製作したりしたよ。
大学生時代に作った曲で未発表の曲は2曲あるよ。
その1曲が、この「ぬかるみ」だよ。
もう1曲が、「風来坊」だよ。
りりィ―さんの音楽事務所に潜り込んだKA君とはいろいろあったよ。
etekoが大学を卒業して、東京の小岩の四畳半の下宿を引き払う時に、KA君とTA君に手伝ってもらった。
二人は音楽サークルの同年代だった。
etekoとこの二人は、音楽サークルに入部した時から気が合ってた。
何時も3人でつるんで行動してたよ。
まるで「サンバカ大将」だよ。
「サンバカ大将」が分かる人って、還暦以上の人だよ。
その二人に、etekoが都落ちする時に手伝ってもらったんだ。
都落ちと言っても、etekoの下宿の4畳半にある荷物を実家に運ぶだけなんだけどね。
この時、KA君がレンタカーを借りることになってた。
当日、ハイエースに乗ったKA君とTA君が下宿の前の道路に到着した。
このハイエースはかなり走り込んでるよ。
側面が何か所もこすって、べこべこしてるよ。
塗装が剥がれた部分からは錆がでてるよ。
タイヤもつるつるの丸坊主状態だよ。
まあー、貧乏学生だからしょうがないよ。
今考えると、当時は携帯もなかったし、電話は大家さんのところの取次だったよ。
日にちは何時だったんだろう。
3月の末だったか、2月かもしれない。
晴れてたけど暖かって言う記憶はない。
部屋から荷物を積むのに、ハイエースのハッチバックの扉を開けると、そこには大きな荷物が一つ転がってた。
etekoがKA君に、「なんだよ、これは、」って問い詰める。
すると、KA君が、「事務所の車を借りてきたよ。その荷物は、りりィ―が使ってるハモンドオルガンだよ。」
etekoは、思ったよ。
ハモンドオルガンかよ。
ハイエースの新車が買えるよ。
荷物を積み込み、おんぼろハイエースは、一路、日立へと向かった。
この時の運転は、KA君とTA君が交代でやった。
etekoも免許はとってたけど、完璧のペーパーだった。
この時は、常磐高速はなかったよ。
それにナビもないよ。
二人は、etekoの地元が日立市だって言う事は理解してるけれど、これが関東である事は認識してないよ。
日立市は東北地方だと思い込んでたよ。
一般道で帰るには時間がかかると言う事で、高速で行こうと言う事になったよ。
何故か、東北自動車道を走って帰ることになったよ。
今考えると、一般道の6号国道を北上すれば早かったよ。
40年近く前の話しだから、今ほど渋滞してなかったよ。
ボロのハイエースは、高速道路を走ってるはずなのに振動が激しかった。
ポロ・ハイエースは遠間りして時間を大幅にかけて、etekoの日立市の実家に無事到着したよ。
実家に着いて、ボロハイエースから荷物を下ろした。
高校生まで使ってたetekoの部屋はそのままの状態だった。
部屋に荷物を入れて、三人はetekoの部屋で一服したよ。
KI君とTA君が東京に戻ろうとした時、事件は起きた。
なんと、ボロハイエースの後ろのタイヤがパンクしてるよ。
完全に空気が抜けててペッちゃんこだよ。
KI君が、「まいったなあ、スペアタイヤは積み込んでないよ。」
だって、
途方にくれる三人だった。
TA君が、「これって、高速走ってた時からパンクしてたんじゃあないのか?
凄い振動だったよ。」
この言葉は、KA君に対する非難がみえみえだ。
いっつもドジなKA君よ、またドジを踏みやがったなあ。
長距離を走るのに、こんなポロ車を調達しやがって、
その時、元気だった親父が立ち上がった。
親父がパンクの修理をかって出た。
この時、親父は40代の頃だった。
親父は10代の頃に少年兵で軍隊に入ったよ。
終戦で、日立で米屋をやってた祖父の家に戻ってきて手伝い始めた。
そして、直ぐに独立して日立鉱山の新町って所で米屋を開業したよ。
その頃は、日立市が一番元気のいいころだったよ。
親父の稼業も高度成長の波に乗り大繁盛だったよ。
その頃は、バイクでコメの配達をしてたんだなあ。
遊びのバイクを持ってたくらいだ。
そして軽トラを入れたりした。
地元では、一番早い時期に車を運転してたよ。
そんな親父がパンク修理用の工具を裏から持ってきて、手際よくパンク修理を始めた。
この時、ボロハイエースは道路を挟んだ空き地に止めてあった。
この空き地には、今は韓国人オーナーの会社と住居が建ってるけどね。
KA君とTA君は、親父のパンク修理を見守っていた。
パンクしたタイヤの所をジャッキで持ち上げ、タイヤをはずす。
外したタイヤにバールを何本か差し込み、大きなハンマーでタイヤを叩く。
中からタイヤのチューブを抜き出し、水を入れたバケツに入れてバンク箇所をさがす。
パンク個所に貼り付け用のゴムをゴムのりで張り付ける。
そして、チューブの下に鉄製の台を置いて上からハンマーで叩く。
張り付けた部分が乾いたのを見計らってチューブをタイヤに戻し空気を入れる。
空気を入れるのは、3人で交代でやったような気がする。
そして、パンクしたタイヤをふたたび元に戻す。
その手際の良さに三人とも感心したよ。
おおー、凄い事に気がついたよ。
この頃の車のタイヤって、タイヤの中にチューブが入ってたんだよ。
今の自転車みたいにね。
あのチューブは、何時から消えたんだろう。
etekoが車を運転する頃には、ほとんど消えてたなあ。
この頃から消えかかったんだね。
ボロハイエースが年代物だったから、タイヤにチューブが入ってたんだよ。
東京に帰る二人には、家で売ってるお米を手渡したと思う。
これ以後は、東京で毎日の様に顔を合わせてた二人とは年に一回くらいしか、顔を合わせることがなくなった。
それが、年が経つにつれ、2,3年に一回、4,5年に一回となってしまった。
今じゃあ、10年は会ってないなあ。
