「静かなることを学べ」とは、
釣魚大全(アイザック・ウォールトン著1653)
のコトバ。
(アイザック・ウォールトン 画像お借りしました)
「仕事の後の釣りは心が休まり、気分爽快だ。悲しいことも忘れてイライラも治る。高ぶった感情も鎮まり、満ち足りた気持ちになる。釣りに没頭すると、穏やかで寛容な心になる」
とのことだが、
著者ウォールトンを取り巻く
当時の背景が大きく影を落としている。
内乱、革命、共和国樹立、王政復古など、
めまぐるしく変わる政治体制と、
家族との度重なる死別など自身の不幸。
こんな中、著者自身が
釣りに心の平静を求めたことが
反映されたコトバだと思われる。
この本を愛読書としていた 故開高健は、
「竿を投げては引き、投げては引きする中、
心に浮かびまた消えるものがあり、
それが流れて行く」
といった趣旨のことを言っている。
川の流れに釣竿を投げては引く‥‥。
時計を取り出して着けてはしまう‥‥。
何となく似ている。
釣りをする川だったらさしずめ、
スペイ川、テイ川、タンメル川‥‥など
(スコットランドの川をテキトーに)
一方、時計メーカーだったら、
ロレックス、パテック、バシェロン‥‥等か。
その時計と接する中で、確かに
心に浮かびまた消えるものがある。
ムリにこじつけるつもりもないが、
開高の言うことを、アナロジーとして
時計に置き換えるのは容易だ。
開高はまたこんなことも添えている。
「癒すことのできない傷が、
傷口をふさぎたくなって出てきている。
そんな心の傷が釣りをせよと呼ぶ」
時計蒐集にもそんなところがある。
蒐集というのは、やはり
何らかのメンタルの反映だろうし。
アングラー(釣師)が
毎回同じような川の流れを目にするが如く、
毎日同じような時計を事あるごとに目にし、
時の流れの中、ふと心に去来することを
時計のダイアルに映し出しながら、
あれこれ物思いに耽る。
時計の製造年や、その個体の辿った経緯、
オーナーとその人生、自分との巡り合わせ、
個体のこの先のこと等に
自分自身を様々な角度から重ね合わせ、
今共に時を歩んでいることを実感する。
所有個体が多く多種多様であればあるほど、
いろいろ思いを馳せ、内省は深まる。
川も流れも魚も多種多様であればあるほど、
流れの性質と獲物の特性に合わせて、
道具を変えたり、竿の投げ方を変えたり‥‥
その中で獲物のみならず
自らを包み抱く自然に、
その中で翻弄されつつも
もがきうごめき今に至った自己に
いろいろ思いを馳せ、内省は深まる。
何千回何万回と繰り返す釣竿の投げ引きに
開高が馳せた幾多の思いと
目に映ったスコットランドの川の流れが
急に身近に迫って来る思いだ。
この釣魚大全
一度読んでみたくなった。
釣りはやらないのだが、
相性の良さ気な本ではないか‥‥
と何となく思う。