日本経済新聞のスポーツ面に「スポーツピア」というコーナーがある。スポーツ関係者5人が週代わりでコラムを書く欄で、執筆陣は定期的に交代する。昨年は山本昌(野球)、中田浩二(サッカー)、佐藤信人(ゴルフ)、寺川綾(競泳)、岩渕健輔(ラグビー)だったが、今年は北澤豪(サッカー)、岩村明憲(野球)、服部道子(ゴルフ)、為末大(陸上競技)、鈴木明子(フィギュアスケート)という顔ぶれになった。
岩村は愛媛県宇和島市出身。ヤクルト、レイズ、パイレーツ、アスレチックス、楽天でプレーし、現在は福島ホープスの球団代表兼監督を務めている。試合にはほとんど出場しないが、現役の選手でもある。オフシーズンの現在はイベントに出演したり、講演会の講師として活動している。
岩村の初回のコラムは、1月10日付の紙面に載った。冒頭で「平均月給は15万円というホープスの選手の生活は厳しい」と述べ、プロ野球の看板を掲げているが、実態は修行の場であることを明かした。さらに「みんな日本プロ野球=NPBなどを夢見て頑張っているが、先が見えないまま続けるのはよくない」と指摘。そんな選手を肩叩きすることも自分の役目の一つと明言した。

その上で、岩村はこんな具体例を紹介した。
「今オフ、ある投手に転身を勧めた。抑えを務め、一時はNPBの球団も注目してくれるほどの投手だったが、彼も27歳。家族もいる。先の人生を考えなくてはいけない。今は納得できないだろうし、恨まれるかもしれない。でも僕は心を鬼にした」
岩村は個人名を挙げなかったが、「ある投手」とは栗山賢のことである。新潟県三条市出身。日本文理高時代に3度の甲子園出場(2006年春夏、2007年春)を果たした。鷲宮製作所、群馬ダイヤモンドペガサスをへて、2015~2016年は福島ホープスに所属した。抑え投手として活躍し、2015年は自己最速の149㌔を記録したが、2016年はランナーを出す場面が目立ち、NPBのドラフトで指名されることはなかった。
27歳という年齢を考えると、伸びしろは少なく、この先もドラフトにかかる可能性は低い。私生活では2014年に結婚し、長男がいる。独立リーグの給与で家族を養うのは困難なので、岩村は戦力ダウンにつながることを承知の上で転身を勧めたのである。

岩村が心を鬼にしたのは「短いプロ人生で終わった元近鉄の兄・敬士の例があったから」だという。敬士は岩村より4歳上で、宇和島東高時代の1993年に春夏連続で甲子園出場を果たした。同級生に元オリックスの平井正史(現・オリックス2軍投手コーチ)がいる。卒業後は体育教師になることを目指して日本体育大に進学したが、大学生活に馴染めずに中退した。
帰郷して水産会社に就職。その後、近鉄のスカウトに「入団テストを受けてみないか」と誘われ、トライした。これに合格し、1996年11月のドラフトで近鉄から7位指名を受けた。同じドラフトで弟の明憲がヤクルトから2位指名を受けたので、兄弟が同じ年にプロ入りする形になった。同じ年に兄弟がドラフトで指名されたのは、1984年の嶋田宗彦・章弘(共に阪神)以来2例目である。

しかし、敬士は弟と違い、プロでは活躍できなかった。近鉄で2年プレーしただけで戦力外になり、再び帰郷した。当時24歳。現在は水産会社と飲食店を経営している。飲食店の名称は「うわじま場所」。福島ホープスのスポンサーでもある。
敬士は「2年でクビになってよかった。あそこで野球をやめさせてもらったから、早く社会に出られた」と言っているという。若くして野球の道を諦めさせてもらったから、再チャレンジが容易だったという意味だ。年齢を重ねれば重ねるほど、それが困難になる。だから、岩村は「NPB入りする可能性が皆無に近いのに、いつまでも独立リーグで野球を継続するのはよくない。別の世界に移るべき」という結論に達したのだ。

今オフは、栗山以外にも多くの選手(練習生含む)が福島を退団した。貴規、小倉信之、生島大輔、小林祐人、佐々木憲、杉山隆史、江村将也、高塩将樹、中瀬祐、小林佑輔、大家友和、渡部生夢、大須賀慎平、小松大和、長嶺拓未…。小林(佑)は新球団の栃木ゴールデンブレーブスに移籍し、引き続き独立リーグでプレーする。オリオールズとマイナー契約を結んだ大家は、メジャー昇格を目指す。他の選手は任意引退や自由契約による退団だ。また、中日から派遣されていた川崎貴弘は、所属先の中日から戦力外を通告された。

BCリーグは2018年シーズンから26歳までの年齢制限を導入し、各球団5人ずつのオーバーエージ枠を設ける。 村山哲二BCリーグ代表が昨年11月に開かれたリーグ10周年記念式典で明らかにした。NPBのドラフトで指名された選手の平均年齢が23歳であることを挙げ、「26歳を超えるとほとんどNPBにはいけない。期限を区切って挑戦してほしい」と話した。岩村だけでなく、リーグ全体として「先が見えないのに続けるのはよくない」という方針を打ち出したのだ。
独立リーグは、大学を中退したり、企業チームに入れなかった選手の受け皿になっている。野球に専念できる環境に魅力を感じ、あえて企業チームを辞めて入った選手もいる。「NPB入り」という目標を達成するために、リスクを覚悟して、そうした道を選択するのだ。しかし、26歳をすぎると、NPBのドラフトにかかることはほとんどない。それでも辞めどきを失って、野球を続ける選手がいる。リーグ創設10周年になったことで、最近はそうした選手が増えた。そこで、年齢制限を設け、リーグ側が辞めるきっかけを提示することにしたのだ。

話をコラムに戻す。岩村は「もちろん、つらいことばかりではない」と前置きした上で、岡下大将の名前を挙げた。
岩村は岡下を見たとき、ヤクルトの先輩である池山隆寛(現・楽天打撃コーチ)を思い浮かべたという。共に大柄なショートで、右打者という共通点があったからだ。ただ、岡下は上半身や腕力に頼ってバットを振り回していたため、岩村はこんなアドバイスをした。
「池山さんって知ってるか? 左足を高く上げて打っていたんだ」
下半身をもっと意識してもらいたくて、池山のバッティングフォームを引き合いに出したのだ。これを機に岡下も池山ばりの「一本足打法」にチェンジ。これがはまり、2016年は12本塁打を放った。
岩村はこう書いている。
「こんなふうに、助言がはまるケースはめったにない。でも、すぐに結果が出なくてもいい。困ったときの選択肢として、頭の引き出しに入れておいてくれればいいのだ」

岡下は奈良県大和郡山市出身。樟南高時代の2009年夏に甲子園出場を果たしたが、当時は外野の控え選手だった。NPB入りを目指して卒業後も野球を続けたが、大阪ゴールドビリケーンズ、愛媛マンダリンパイレーツ、06BULLS、石川ミリオンスターズと毎年のように所属先を代えた。石川は1年で自由契約になり、次の所属先を探していたときに新球団の福島ホープスに声をかけられた。ここで岩村監督と出会い、野球の基本を1から叩き込まれた。
従来は練習嫌いの一面もあったが、福島では心を入れ替えて野球に取り組み、急成長した。2015年のドラフト前はオリックスと横浜DeNAから調査書が届いた。指名には至らなかったが、本人は「やればできるんだ」という手応えをつかんだ。

2016年シーズンは、さらに成長した。本塁打は2015年シーズンの8本から前述したように12本に増えた。苦手だった守備も大幅に上達した。ただ、遊撃手ということを考えると、もう少し安定感がほしい。ダブルプレーをとる場面で捕球や送球を焦り、よく失策をおかす。ドラフトで指名されないのは、このあたりに原因がある。
岡下は6月に26歳になる。年齢的に見ると、2017年のドラフトがNPB入りの最後のチャンスになる。2017年シーズンは、その目標に向かってプレーすることになる。3番バッターの岡下の打棒が爆発すれば、必然的に福島の勝ち星は増える。その結果、福島が優勝し、師と仰ぐ岩村を胴上げできれば100点満点だ。

【写真の説明】
・岩村明憲監督
・左から栗山賢投手、岡下大将内野手、中瀬祐投手
・福島ホープスのスポンサー「うわじま場所」
・佐々木憲内野手(左)と小倉信之外野手
・生島大輔内野手
・川崎貴弘投手
・高塩将樹投手
・大家友和投手(左端)
・貴規外野手


本ブログの2016年9月19日~20日付で駒田徳広(元巨人・横浜)とその元妻に関する噂を検証した。当時は噂の発信源を特定できなかったので、その後も検索を続けた。その結果、「ネタ元はこれだな」というブログに突き当たった。複数の人々がソースとして挙げていたからだ。

http://verkhoyansk.main.jp/cgi-work/mt/blog/archives/2004/12/post_107.ht...

皆さんは、現在、テレビ東京でプロ野球解説者をしている
元横浜ベイスターズのV戦士、駒田●広選手をご存知でしょうか?
元々巨人軍に在籍していて、顔が長いことから「ウマ」などと
呼ばれていた選手です。

駒田選手は結婚して2ヶ月で離婚しています。
2ヶ月。スピード離婚もいい所です。

元々 この結婚はできちゃった結婚でした。
入籍した時、奥さんは既にお腹が相当大きかったそうです。

2ヵ月後。奥さんに陣痛が!駒田は一緒に病院に行きました。
分娩室の中で、奥さんの手を握り、一緒に出産を乗り越えようと頑張る駒田。

オギャー!オギャー!??

分娩室の中は異様な空気だったそうです。
なぜか・・・。それは、

赤ちゃんの肌の色が、黒かったんだって・・・。

助産婦さんも駒田に
おめでとうございますとは言えなかったそうです。

駒田は呆然としながら奥さんに言ったそうです。

「とりあえず、お疲れ。」

(後日談)
駒田が離婚した直後、ヨレヨレのTシャツを着て後楽園球場入りしている
のを見たクロマティ。
練習後、駒田に自分の新品のシャツを渡し、駒田を広尾のマンションに招待した。
食事が済み帰る頃には、綺麗に洗濯したTシャツと夜食用のおにぎりが…。
帰りの車中、駒田は男泣きしながらクロマティの気遣いに感謝した。

〔引用はここまで〕

このブログはすでに閉鎖されているので、リンク先をたどっても原文を読むことはできない。ただ、「/2004/12」という表記から、2004年12月に書かれたものであることは分かる。当時のプロ野球界は東北楽天の新規参入にわいており、駒田の注目度もアップしていた。田尾安志監督のもとで1軍打撃コーチを務めることが決まっていたからだ。
2004年12月に発信されたので、この噂は2005年から急速に広まった。引用が繰り返される過程で、「週刊誌に記事が載っていた」という一文が付け加えられた。これに対して「ウソくさい」「ソースが個人のブログでは信頼性が低い」という見方をする人もいたが、裏付けを示さなかったため、噂の拡大に歯止めをかけることはできなかった。

とはいえ、裏付けを示していないのは、ネタ元も同じである。文章の基本は「いつどこで誰が何をしたか」を明示することだが、ネタ元は「駒田が妻と病院に行った。妻が産んだのは肌の黒い赤ちゃん…」とあるだけだ。これでは「いつ」のことか分からない。それに駒田という個人名を出しておきながら、病院名を出していないのは不自然だ。少なくとも病院が立地する自治体名は明記すべきだが、それもない。
ところが、後半になると、駒田が「とりあえずお疲れ」と言ったという見てきたような話が書いてある。文章に強弱がありすぎるのだ。ネットリテラシーのある人なら、この時点で「作り話」「ネタ」と気づくはずだ。

この噂は2005年から2016年の12年間にわたってネット上を漂流し、半ば事実と受けとめられてきた。「(噂は)本当です。結婚前の浮気の際の子みたいです」「元妻は性的に自由奔放な人だったようです」などと解説する人まで現れた。元妻がどこの誰かも知らないのに、知っているような話をしているのだ。
噂を流すのは簡単だ。日付などの裏付けを示さなくても、ストーリーがおもしろければ事実と受けとめる人がいるからだ。一方で、その真偽を確認するのは難しい。きっちりとした裏付けを示さないと、信用されないからだ。

私自身、駒田の話をラジオで聴くまでは、この噂を放置していた。「デマに違いない」という印象を持っていたものの、真偽を確認しようとは思わなかった。図書館に行き、職員に昔のスポーツ紙を出してもらい、そのページをめくるという作業が面倒だったからだ。駒田の話を聴き逃していたら、きっかけがなかったので、そのまま放置していたはずだ。
いや、そう言い切ることもできない。仮に駒田の話を聴いたとしても、元妻が福島県出身でなければ、やはり放置していたかもしれない。元妻が福島県出身であることは前から知っていた。彼女が「夫以外の子どもを産んだ」ということになると、福島県の女性のイメージが悪くなる。そこで、駒田の話をきっかけにして、その名誉を回復するために、面倒な作業をやろうという気になったのだ。
さまざまな偶然が重ならなければ、2回の検証記事を書くことはなかった。書いたあと、スッキリとした気分になったのを覚えている。「いつかは真偽を確認しなければならない」という潜在意識があったのかもしれない。

2011年3月の震災・原発事故のあとも、ネットにさまざまなデマが流された。その中で、私が目にした瞬間に「プッ!」と吹き出したものが2つある。
①福島第一原発は渡部恒三(衆院議員)が自分の所有地に誘致した。渡部は東京電力から膨大な地代をもらっている。
②福島第一原発は麻生政権が廃炉にすると決めて、稼働を停止していた。しかし、鳩山政権がその決定を白紙にして、強引に再稼働した。
この2つのデマは、検索すれば、今でも出てくる。リアリティはゼロだが、県外では事実と受けとめた人もいたようだ。これらについても、機会があれば裏付けを示して、デマであることを証明したい。

【写真】
YouTubeにもデマを拡散する映像が…








年末になると、頭に浮かぶ歌がある。中島みゆきの『ホームにて』だ。1977年6月にリリースされた3作目のオリジナルアルバム『あ・り・が・と・う』の一曲として発表された。同年9月にリリースされた5枚目のシングル『わかれうた』のB面にもなった。発表から30年が経過したが、いまだにラジオのリクエスト番組でよくかかる。『時代』『糸』などに匹敵する中島の名曲と言っていい。

この歌に魅了された男がいる。元NHKプロデューサーの今井彰だ。苦難に立ち向かう無名の日本人を描いた『プロジェクトX』の制作責任者といえば、ピンと来る人も多いだろう。
ディレクター時代の今井は局内でやっかい者扱いされていた。作る番組がことごとく不評で、本人も「このままでは退職に追い込まれるかもしれない」とビクビクするような日々をすごしていた。一発逆転を狙って看板番組『NHK特集』の制作に挑戦。イカ釣り船を追って日本海側の各地を2カ月半にわたって転々し、夜はビジネスホテルに泊まった。最初はベッドの硬さが新鮮だったが、そんな生活が10日20日と続くと、その硬さが身体の負担になった。取材もうまくいかず、「今度の番組も失敗するのではないか」と不安になった。
そんなとき、ホテルの有線放送から『ホームにて』が流れてきた。もともと中島ファンだった今井は、その歌声に癒された。そして、日本海側の風景が故郷の大分県佐伯市と似ていることに気づき、「やるだけやってみよう」と仕事に対するモチベーションを高めた。

そのときの印象が強烈だったので、『プロジェクトX』の制作責任者になると、中島に主題歌をつくってほしいと依頼した。所属事務所のヤマハミュージックアーチストは「スケジュールが詰まっていて、新曲をつくるのは難しい」と返答。しかし、今井は諦めず、「自分がいかに中島のファンであるか」「この番組になぜ中島の歌が必要なのか」などを手紙に書き綴った。そこに番組5本分の企画書を同封した。その中の1本が、富士山の気象レーダーの話だった。

日本は昭和30年代の初頭まで、台風予知の体制が完備していなかった。このため、約5000人の犠牲者を出した伊勢湾台風を筆頭に、台風が襲来するたびに大きな被害を出した。被害を少なくするためには、24時間前に台風の位置を観測できる場所にレーダーをつくるしかない。そこが富士山の山頂だった。大成建設と三菱電機のサラリーマンは、そこで実験が可能かどうかを確認するため、冬の富士山に登ることにした。標高が4000㍍近いので、大変な困難を伴う作業だった。彼らは妻や恋人に遺書を残して、それに挑戦した…。
今井がそういう手紙と企画書を送ると、中島本人から「やってもいいですよ」と電話があった。それで完成したのが、オープニングの『地上の星』とエンディングの『ヘッドライトテールライト』である。中島のファンはそれまで20~40代の女性が中心だったが、この番組により、中年男性のファンも増加した。

中島の歌詞は、回りくどくて抽象的だ。その分、聴き手がイメージを膨らませて、さまざまな解釈をすることができる。『ホームにて』はその典型だ。
「ふるさとへ向かう最終に 乗れる人は急ぎなさいと やさしいやさしい声の駅長が 街なかに叫ぶ」
いくら1970年代とはいえ、ふるさとに向かう最終便が出る駅…つまり都会のターミナル駅の駅長が街なかに向かって「急ぎなさい」などと叫ぶわけがない。しかも、「乗れる人」という歌詞が不自然だ。まるで「都会にはふるさとに向かう最終に乗りたくても、乗れない人がいる」と言いたげである。
この歌詞をネットで検索すると、案の定、さまざまな解釈が出てきた。中島は「正解」を発表しない主義なので、どの解釈が当たっていて、どの解釈が外れているのか分からない。だからこそ、多くの人々が自分なりの解釈を展開して、ネットで発表したくなるのだろう。私も引っ掛かるものがあるので、意見を述べてみたい。

「ふるさとに向かう」という行為は、2種類ある。一つは、生活拠点そのものを都会からふるさとに移すこと。もう一つは、長期休暇などに合わせて一時的にふるさとに帰ることだ。前者は「帰郷」、後者は「帰省」という言い方をすることが多い。
『ホームにて』は、明らかに帰省をテーマした歌だ。帰郷の時期は人それぞれだが、帰省の時期は年3回(ゴールデンウィーク前、お盆休み前、正月休み前)とほぼ決まっている。「帰省ラッシュ」という言葉があるのも、多くの人が一斉にふるさとに向かうからだ。「やさしい声の駅長が急ぎなさい」と街なかに叫ぶのは、今がその時期だからである。
帰郷ラッシュが起こるのは、前述したように年3回だ。このうち、『ホームにて』の時期は正月休み前と断定できる。中盤に「手のひらに残るのは白い煙と乗車券」という歌詞があるからだ。これは、乗車券を強く握って汗をかき、手のひらから湯気が出た状態を描写している。この現象が起こるのは、寒い時期…すなわち正月休み前だ。

問題は「やさしい声の駅長」をどう解釈するかだ。前述したように、街なかで「急ぎなさい」と叫ぶ駅長などいるわけがない。田舎の駅ならともかく、ここはネオンライトが輝く都会のターミナル駅だ。あまりにも非現実的な光景なので、何かの比喩と思われる。
おそらく駅舎を見た瞬間、「最終がもうすぐ出るから、急げ」という言葉が頭に浮かんだのだろう。つまり、自分に対して、もう1人の自分がプレッシャーをかけたのだ。長距離走で苦しくなると、「ゴールまでもう少しだ。歩くんじゃないぞ」という言葉が聞こえてくる。そういう状態に近い。

ただ、ふるさとに向かう汽車は、翌日も運行される。仮に最終に乗り遅れたとしても、翌日の始発に乗ればいいだけの話だ。なぜ、それほど「最終」にこだわるのか。
理由は「帰省するなら、大晦日が期限」という考えがあるからだろう。年内にふるさとに到着する汽車はこれが最後という意味で「最終」という言葉を使ったのではないか。翌日の始発に乗れば、ふるさとに到着するのは1月1日になる。それでは「帰省」にならないと本人なりに考えているのだろう。

歌詞に「空色」という言葉が3回登場する。「空色の汽車」が2回と「空色のキップ」だ。空色は、ふるさとの空をイメージしていると解釈できる。「灯りともる窓の中」というのは、汽車の中だ。そこで笑う帰り人は、ふるさとに向かう最終に乗れる人である。一方、自分はまだホームに立っている。ドアが閉まりかけているが、走り出せば間に合うかもしれない。ただ、かざり荷物を持ったままではドアに引っ掛かって、乗り込めない。かざり荷物をふり捨てて、身体を横にすれば、スルッと乗り込めるはずだ。しかし、街に「ふるさとに行ってくるよ」と挨拶をしているうちにドアは閉まってしまう。

歌詞に「振り向けば」という言葉が3回出てくる。この人は、一貫して汽車に背を向けていることになる。要するに、最初から帰省する気がないのに、あえてホームに立っていることになる。
「かざり荷物」というのは、格好をつけるための荷物と解釈できる。帰省するときは、大きなスーツケースが付き物だ。それが大きければ大きいほど、都会でいい生活をしているという印象を与えることができる。いわばステイタスシンボルだが、この人は帰省する気がないので中身は空っぽ。だから、乗り遅れそうになると、一瞬とはいえ、ふり捨ててもいいという考えがわき起こるのだ。

ドアが閉まる瞬間、街に挨拶したのは、汽車に乗り遅れるためだろう。汽車に飛び乗るつもりなら、そんなことをしている余裕はない。繰り返しになるが、この人は最初から帰省する気がない。帰省するふりをして、ホームに立っているだけ。タイトルが『ホームにて』なのも、それを強調するためと考えられる。
ふるさとへ向かう最終が走り出すと、この人もそれに合わせてホームを走り出す。汽車の窓を叩くのは、機関士や駅員に「止まって!」とアピールするためだろう。わざと乗り遅れたのに汽車を止めようするのは、この期に及んでも帰省したいという欲求がわき起こってくるからだ。
ホームの先にはふるさとがある。その情景を思い浮かべて、涙ぐみ、ため息をつく。そんなことを何度繰り返しただろうか。いくら都会が華やかでも、ふるさとへの思いを消すことはできない…。

こういう解釈を提起すると、本ブログの読者は次のような質問をしたくなるはずだ。
「それほど強い郷愁があるなら、なぜ、ふるさとへ向かう最終に乗って帰省しないのか」
その答えは冒頭の「ふるさとへ向かう最終に乗れる人」という歌詞にある。正月が来たからと言って、誰もが帰省できるわけではないと暗に言いたいのだ。
この人は都会で不安定な生活を強いられているのだと思う。帰省すれば、親や友人に「都会の暮らしはどうだ?」と聞かれる。そのとき、「その日暮らしのような生活をしている」と回答すれば、心配をかけることになる。かといって、「都会の暮らしは最高だ」と回答すれば、嘘をついたことになる。どちらを選択してもポジティブな話にはならないので、帰省できないのだ。

「ならば、都会の生活に見切りをつけて、帰郷すればいいではないか」と思う人もいるだろう。ところが、1970年代の日本は、地方にまともな職場がほとんどなかった。長男以外は地元を離れて都会に出るのが常識だった。二男三男が地元にいると、極端に言えば、周りに「?」という顔をされたものだ。ましてや、都会に出た二男三男が帰郷したら、悪い噂が立つことを覚悟しなければならない。
「あいつは都会でロクでもないことをしたので、田舎に帰って来た」と。
だから、二男三男は都会の生活に挫折しても、簡単に帰郷できなかった。苦しくても、歯を食いしばって都会で生活しなければならなかったのだ。

駅のホームは、都会とふるさとの接点である。都会で生活基盤を整えた人は、大きなスーツケースを持って、堂々と帰省することができる。しかし、そうでない人は帰省もできず、正月を一人ですごさなければならない。唯一できるのは、ふるさとへ向かう空色の汽車に感情移入して、帰省気分を味わうことだけだ。
『ホームにて』は、都会にもふるさとにも居場所がない人のための歌である。絶望的に寂しい歌である。だからこそ、聴き手は「寂しいのは自分だけではない」と励まされるのだろう。